■見どころ
慈眼堂
滋賀院門跡の西側にあります。江戸幕府と密接な関係にあり、比叡山の再興をはかった天海僧正の霊廟です。桓武天皇の宝塔や歴代の天台座主の墓所もあります。また、鵜川四十八体弥陀石仏のうち十三体がここに移されています。
霊窟の石仏(蓬莱丘)
坂本ケーブルの建設工事中に発掘された、多数の石仏を安置し祀っています。この石仏は、信長の焼き討ちで犠牲になった人々の霊を慰めるため、土地の人々が仏を安置したと伝えられています。この付近だけでなく、山麓や比叡山中には、このような石仏群が各所にみられます。
日吉東照宮
南光坊天海大僧正によって建立され、日光東照宮の雛形といわれています。壮麗絢爛な社殿は権現造りと呼ばれ、建築や装飾の上で特筆される建物です。
倭神社
「しどりさん」と呼ばれ、無動寺の鎮守社です。日本武尊を祭神とし、滋賀郡の式内社八座の一つになっています。
盛安寺
越前の朝倉貞影に仕えた杉若盛安が1486(文明18)年に建立したもので、明智光秀や豊臣秀吉の保護を受けたとされています。穴太積みの石垣に沿って、無動寺道が西に伸びています。
百穴古墳群
6世紀後半から7世紀前半の群集墳。直径10m前後の小円墳が山腹に集まっています。墳丘の中に横穴式石室があり、その構造が百済や高句麗の古墳とよく似ています。穴太積みの石垣と、渡来人の古墳づくりの技術が近いのも興味深いものがあります。付近には、野添古墳群のほか、大通寺・大谷古墳などがあります。
滋賀里
坂本から南志賀にかけての地域を大友郷といい、古代大友氏の拠点でした。
倭神社
天塚の天神さんと呼ばれ、古墳のうえに小さな社殿が建っています。
南滋賀町廃寺
南滋賀の集落内にあって、三町四方の寺域をもち、塔心礎が残っています。大津宮時代の大寺院とみられ、西方の山裾には瓦を焼いた榿木原遺跡があります。
大津宮錦織遺跡
667(天智6)年に、天智天皇によって遷都されましたが、短命に終ったといわれています。1974(昭和49)年に発掘調査され、近江大津宮の遺跡と確認されました。
近江神宮
1940(昭和15)年に創建され、天智天皇を祀っています。天皇は漏刻(水時計)をつくり、時の概念を導入したことで知られています。広い境内には、楼門・拝殿・本殿などが並び、荘厳な雰囲気が漂っています。
皇子山古墳
皇子山の山頂に築かれ、国の史跡に指定された4世紀後半の前方後円墳です。葺き石が復元され、往時の姿を偲ばせています。
新羅善神堂
園城寺(三井寺)の鎮守社の一つ。木像新羅明神像を祀り、壬申の乱で敗死した弘文天皇の皇子(与田王)が建立したといわれています。866(貞観8)年、智証大師により、また1347(貞和3)年、足利尊氏により再建されたようです。八幡太郎義家の弟=義光=は、この新羅明神の前で元服したとされます。園城寺内では最古の建築物といわれています。
長等山前陵
1873(明治6)年に、旧別所村・山上村にまたがる地域が旧陸軍の練兵場になり、このとき園城寺(三井寺)の北院の多くが潰されたようです。大友皇子が自刃したところとされている長等山前陵(弘文天皇陵)は、歴史的な根拠に乏しいといわれています。
法明院
園城寺の塔頭の一つ。1720(享保10)年、義瑞律師によって開かれた天台密教戒律の修行道場です。明治時代に、東京大学の哲学講師として来日したアーネスト‐フランシスコ‐フェノロサ(哲学者)や親友であるビゲローの墓が建ち、新羅三郎のものもあります。
円満院
元園城寺三門跡の一つで、寺域は園城寺の北東側に隣接しています。宸殿(重要文化財)に沿って庭園がつくられ(江戸時代初期)、池と築山を組み合わせた造形が美しく、国指定の名勝・史跡になっています。
園城寺(三井寺)
三院に分かれます。中院は金堂・講堂・経蔵・鐘楼・唐院(円珍廟)など境内の中心地域を指します。新羅善神堂や法明院の北院と、五大堂・正法寺(観音堂)・三尾社・新日吉社などがある南院が南北に広がります。別に、尾蔵寺・近松寺・微妙寺・常在寺・水観寺の五別所が周辺にあります。覚忠(三井寺の高僧)による三十三所観音巡礼は、行者の修験の場として始まったとされます。一般民衆に普及するのは15世紀ころからといわれ、対立していた延暦寺関係の霊場を意識的に排除しています。二十二番札所の観音堂が高台にあります。
三尾神社
地主神である三尾明神は園城寺(三井寺)南院の中心にありましたが、現在は惣門横に移されています。そして崇敬神となり、町の人々に親しまれています。
長等神社
円珍が860(貞観2)年に、日吉山王神を園城寺の護法神として祀ったことに始まるようです。1054(天喜2)年、明尊が参詣のために勧請し、社殿を建立しました。■全コース=[中級]、コースの一部分=[初級] |