■見どころ
途 中
途中の中央には、葛川参籠(夏安吾)の行者が立ち寄る勝華寺(途中堂)があります。境内には、1262(弘長2)年の銘が入った水盤(水船・水槽)があって今も使われています。ほかに、明星寺・さかさ地蔵などが点在しています。
還来神社
龍華庄は、藤原氏の庄園でした。藤原旅子(桓武天皇夫人)は若くしてなくなりましたが、遺言に従いこの地へ還ったことから還来大明神として祀られました。また、平治の乱で敗れた源義朝が武運長久をここで祈り、のち頼朝が上洛を果たして大願の成就を謝したともいわれています。のちの世になって、無事帰還を願う参拝者が増えました。
伊香立
真野川上流域に広がる、標高150〜200mの古琵琶湖層からなる丘陵地帯で、古くは筏立郷(筏津・伊賀多津)と呼ばれました。
下在地
伊香立五ヶ村(上在地・下在地・北在地・向在地・生津)の中心にあたり、大谷山新知恩院があります。鎮守社である八所神社の御旅所には、相応和尚が不動明王像を置いたという不動明王腰かけ岩(名付け岩)があります。
生 津
伊香立越で山城国(京都府)へ通じる山際にあり、東は水田地帯と琵琶湖が広がります。若宮神社や昌峰院があり、伝統の「仏名会」が行なわれています。また、生津城跡が字イヤガ谷の城山にあり、中世林宗林坊の居城跡といわれています。
融神社
真野川の支流である融川に沿って、南庄の西に広大な境内が広がります。春の祭礼は、四つの座で構成された組で執り行なわれるようです。
伏龍祠
1804(文化元)年に、南庄粘土層から発見された龍の化石にちなみます。膳所藩では、領主の本多侯がここを龍ヶ谷と改称し祀りました。明治時代に入って、ドイツの地質学者=エドムンド‐ナウマンの鑑定により、ゾウの化石(下顎骨)と判明。「龍骨図」(上田耕夫)・「伏龍骨之図并序」(椿井政隆)が滋賀県内の博物館に保管されています。
仰 木
棚田のある風景として、すっかり有名になりました。語源は小椋の転訛したものだといわれています。御所ノ山には、源満仲の館跡を伝える碑が建っています。また、小椋神社には、鎌倉時代の瑞垣(板碑)が残り、その北側に連なる丘陵に、光永澄道師の覚性律庵があります。
雄琴川
横川の東面を流域として東へ流れ、仰木・千野の境界を経て雄琴で琵琶湖に注ぎます。流長は約6km。上部は流域を横断する道路がなかったため、他所ではみられない長閑な水田風景がつづき、比叡山系東山麓でもっとも素晴しい地域でした。現在は主要地方道「伊香立浜大津線」が南北を縦断して、写真(上)の景観は失われました。なお、道路は千野と坂本の間が未完成です。
千 野
安養院は、元三大師良源の母(月子姫)の墓所にあたります。大師の「垂乳(母)女」の居所という意味から乳野と呼ばれたようです。谷崎潤一郎の『乳野物語』(原題「元三大師の母」)には、母に逢うため山を下る大師の話が語られています。
苗 鹿
那波加大明神が地名の由来だといわれ、6世紀後半の苗鹿古墳群などが付近に点在しています。1169(仁安4)年に焼失した横川中堂を再建するため、内陣の柱にする四本をここから伐り出した(『山門堂舎記』)といわれています。那波加神社の社叢林が、かつての樹林を思い起こさせます。西近江路には四面に「苗鹿講」「両宮月参」「常夜燈 大神宮」「弘化四丁未正月」と刻まれた大きな常夜燈が建っています。
飯室谷
横川の別所谷として、山麓にひっそりとたたずむこの地は、飯櫃童子が老仙人の姿で慈覚大師円仁に飯食を献じたのが名の由来といわれています。本堂の不動堂をはじめ、松禅院・長寿院・護摩堂・安楽律院などが連なります。
嶽
坂本の西北にある字名。千野との境界を高橋川(蛇喰谷)が流れ、横川(飯室谷)の入口にあたります。近くに嶽古墳があります。
西教寺
大窪山(戒光山とも)智善院西教寺と号し、明智光秀が再建に尽力しました。山門は坂本城の遺構を移築したものといわれています。八萬日〔1720(享保5)年〕から十八萬日〔2000(平成12)年〕までの念仏供養塔や、明智一族の供養層塔(江戸初期)・二十五菩薩来迎石〔1659(万治2)年〕などがあり、隠れた紅葉の名所でもあります。南側には泰門庵があり、宗祖大師殿の前とともに南湖の眺望が広がります。
紅染寺
伝教大師最澄の父である、三津首百枝公の居住跡と伝えられています。現在は、「南無阿弥陀佛」碑が建つだけです。
坂 本
伝教大師最澄自作の六地蔵といわれるものが、坂本各所に存在します。東塔本坂の登り口にある早尾地蔵(かくれんぼ地蔵)のほか、九条(阿波羅屋)・苗鹿・比叡辻・穴太・明良に地蔵堂が設けられています。そのほか、町中には滋賀院門跡をはじめとする里坊群と神社が目立ちます。
近江路(北国街道)
奈良時代より使われ、畿内と北国(北陸)をむすぶ重要なルートです(大津〜坂本〜衣川〜木戸〜小松〜今津〜海津〜駄口〜疋田〜今庄)。日本を代表する七道の一つ。距離は二十六里(約101km)で、穴太・和邇・三尾・鞆結に駅が置かれました。「北国海道」は、江戸時代の表記。■全コース=[上級]、コースの一部分=[中級] |