北白川にある瓜生山の石切場踏査をほぼ終えて、おぼろげながらその全貌が見えてきた。これまでに「瓜生山の石切場」として途中経過をリポートしているが、その様子と範囲は想像をはるかに超えて大規模なことが明らかになった。 上図は石切丁場の分布を地形図(京都市都市計画図=1:2,500)にまとめたものである。全域を集約するなかで、清沢口・蜜谷(みつたん)・地蔵谷に分けるとわかりやすくなる。さらに、丁場を尾根と谷で区分すれば、それぞれの位置関係や採掘・運搬にかかわる結節点などが浮かび上がってくる。石切道のルートもおのずと読めそうである。そのため、全体を六つの現場(丁場)として表記した。 その際に参考としたのが山中に埋まる標石だ。「清沢口の内田忠衛門の石切場」から「(白川石は)相当に出」たと記念誌(『愛郷』第四十六号)に記載があったことから、それぞれの位置を特定することも大事な要素だと考え注視した。 もうひとつの意外性は、採掘する母岩が必ずしも岩壁だけとはかぎらないことである。江戸時代の『山州名跡志』(正徳1=1711年)や『都名所圖会』(安永9=1780年)では、白川石を切り出したために白川ノ滝は消失したとあるように、切り立った露頭がなくなって穏やかな谷と緩やかな斜面に変化している景観を考慮する必要がありそうだ。 そうした視点で地形を眺めると、各地に同様の光景が見受けられる。大文字山側にある石部谷の丁場跡で地形が変わった痕跡に接して以来、白糸ノ滝周辺の風景もその結果だと強く思うようになった。やはり、里にいちばん近い場所から石切りが始まったと思われる。もっとも、私が子供の頃まで稼働していた水車による製粉・精米や伸銅の産業も考えなくてはならない。だが、全体の状況を考えれば最たるものは採石であろう。埋もれているこの山の魅力はまだまだありそうで楽しみにしている。 |