老ノ坂は山城と丹波の国境で、以前に古い標石などを探して歩いたことがある(「老ノ坂を探る」)。今回はかつての山陰街道の風景を求めて、老ノ坂の旧峠から並河(亀岡市)まで辿ってみた。 国道9号の老ノ坂トンネル(3代目=初代を拡幅して竣工)と並行して旧トンネル(2代目)があり、現在は自転車・徒歩道として利用される。国道を挟んだ南側から峠の家屋が建つエリアに入ると、静寂に包まれた竹林や畑が広がる。まず、東側の国境標石と首塚大明神を往復した。西へ向かえばすぐに峠で、分水嶺と国界の尾根は異なる。 京都縦貫自動車道の間を進み、大きなS字を描く国道の王子橋で道路を横断。横には「めがね橋」と呼ばれる王子橋(設計=田邉朔郎)の親柱が保存されていた(土木遺産)。緩やかな旧道を降ると、旅人の吉凶を占ったという占い石がある。三軒屋に来れば平地になって、鵜ノ川(池谷川)の船着場跡を示す標識が立っていた。段丘の上は旧国道で王子神社が鎮座する。熊野若一(じゃくいち)王子を勧請したのが地名の由来という。境内にツブラジイの巨樹が聳える。 篠町(しのちょう)の町並みを見ながら篠村八幡宮の灯籠まで来ると、初詣の人たちの姿が多い。境内には露天も出ていた。足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府打倒の旗を上げた旗立楊が本殿の右手背後にあった(元弘3=1333年)。挙兵にまつわる矢塚も残る。 西川橋を渡り、江戸時代に寺川と呼ばれた年谷川を越えると市街地へ入る。年谷橋は1952(昭和27)年に架けられ、両サイドに恩賜燈が立ってレトロな雰囲気が漂う。前代の橋は前年7月の平和池決壊によって流された。堤防は松並木だったらしく、千本松(野橋立)跡の説明板がある。 三宅町から西竪町を経て古世地蔵堂まで来ると城下町の風情が漂う。移設されたのだろうか、穴太寺や園部を示す道標があった。北面は「左 京/ふしみ」を案内する。桝形(枡形)の道を旅籠町・紺屋町・西町・北町と折り返していく。途中には本陣跡・高札所跡・御勘定所跡のほか、形原神社(大手門跡)や寺院が並び建つ。休憩のため、亀山城外濠にあたる南郷池(公園)へ寄り道した。 現在の府道6号と402号が合流する辺りは、道が屈曲して旧道がどう接続するのか分かりにくい。防衛の最前線にあたる惣堀(そうぼり)に三年坂(産寧坂)の標識が立ち、子安地蔵尊の標石(寛政9=1797年)があった。北町へ入ると、西光寺の近くに「心学 石田先生誕生地」の道標が東別院東掛(とうげ)まで三里餘(余)と刻む(「心学の道」)。曽我谷(そがだに)川を渡ると河原町で、篠山街道が西へ分かれる。万延元(1860)年再建の道標は、南面が「左 さゝ山 栢原 はりま 志ゆん礼道」、北面は「左 京 いセ 米屋久右衛門」と彫られていた。高台にある西岸寺は余部丸岡城跡で、立派な標石が入口に立つ。 山陰本線の向こう側は宇津根町で、大堰川(桂川)両岸の平地が広がる。牛松山や愛宕山の山なみが近い。式内社の伊達神社には、境内に「左 そのべ?/たんご?」「右 國分?」の道標があった。かつて、山陰街道が近くを通っていたと思われる。ただ、説明板によると延享4(1747)年の氾濫で隣の宝蔵寺とともに流失し、のちに現在地へ移転してきたとあった。したがって、この付近の旧ルートは確定できない。旧国道は山陰本線に沿って大井(並河)へ向かう。 田園地帯を宇津根橋まで進み、犬飼川右岸の堤防で並河の集落へ。広々とした空間に亀岡盆地を囲む山々が姿を見せる。前脇橋を越えると、大きな屋敷や落ち着いた屋並みがつづく。曲がり角には、紅殻・白塀に囲まれて愛宕山の常夜燈が立っていた。美しい光景に安らぎを覚えながら、鯉を尊ぶ大井神社から鉄道歴史公園に寄って「並河」駅へ(2025.1.2)。 |