■見どころ
長等公園
長等山の山麓にあり、都市公園として1902(明治35)年に整備されました。桜の名所として知られています。園内には自然観察路があり、植物や野鳥も多く、東海自然歩道で大谷方面へ抜けられます。山中には、兜稲荷や平忠度の歌碑(桜ヶ丘)が建っています。
近松寺
園城寺(三井寺)の五別所のひとつ。高観音とも呼ばれ、智証大師作と伝えられる千手観音菩薩を祀っています。近松門左衛門も一時はここに住んだようです。
犬塚のケヤキ
食膳に毒を盛られた蓮如が箸を口に運ぼうとしたとき、犬がかわりにそれを食べ尽くして死んでしまったという伝説が残っています。その愛犬をとむらい葬ったところとされています。
関寺の牛塔
鎌倉時代の宝塔。恵心僧都源信の弟子である延鏡が、関寺復興に際して一頭の牛を提供しました。その霊牛を供養するために祀られたようです。西側の山中には安念塔跡(安念塚)があります。
関の蝉丸神社(下社) 旧清水町にあり、関の清水(関清水大明神)といわれています。豊玉姫命・蝉丸も合祀されています。境内には小町塚があり、「花のいろはうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」の歌碑が建ち、鎌倉時代前期の時雨燈籠もあります。
安養寺
861(貞観3)年、智証大師の開基といわれています。延暦寺の襲撃を逃れた蓮如が、この寺で追い詰められたとき、傍にあった立石が守ったと伝えられる身代わり名号石があります。そのあと上人は、山科に本願寺を再建しました。
旧逢坂山トンネル
1880(明治13)年に掘削が始まりました。東口には「楽成頼功」の扁額が掲げられています。向かって左手が当初のもので、右は複線時代に使用されたものです。西口は名神高速道路の建設に伴い、地下18mに埋没しました。現在は記念碑だけが建っています。
関の蝉丸神社(上社)
旧片原町にあり、822(弘仁13)年に小野朝臣峯守が逢坂山の守護神として創祀したとされています。のち、946(天慶9)年に蝉丸が合祀されました。
逢坂山の関
鈴鹿の関(三重県)・不破の関(岐阜県)とともに「三関」のひとつに数えられています。合坂・相坂・会坂・安布左可などと表わし、646(大化2)年には既に関所が置かれていたようです。これより東を坂東といいました。また、東海道の南側に水車谷があり、供養塔が建っています。ここは、首切り場と呼ばれ、元禄時代の『淡海禄』にも獄門場・火打ヶ鼻の名が見られます。峠には常夜燈と「逢坂山關址」碑があり、関の「閂石」といわれるものも近くにあります。
蝉丸社
大谷町にあり、1658(万治元)年に関の蝉丸神社(下社)を勧請したものといわれています。
走 井
大谷には、江戸時代に走井餅を売る茶店がありました。広重の「東海道五十三次之内 大津」にも描かれています。橋本関雪の別荘であった月心寺の庭内には、百歳の小野小町像を祀る百歳堂が建っています。この付近から追分にかけて、江戸時代には絵師・錠前師・轆轤師・彫刻師・算盤師・仏具商・針屋などが軒を連ねていたようです。一里丁(町)を示す道標も残っています。
追 分
旧東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたります。『伊勢参宮名所圖會』に「追分に柳緑花紅の標石あり」と記載され、他の名所図会にも載っている道標が建っています。現在のものは三代目といわれ、1954(昭和29)年に建てられたものです。二代目は同所の摂取院境内にあり、江戸時代のものは大津市の琵琶湖文化館の前に移されました。この「柳緑花紅」は、中国の宋の詩人=蘇東坂の詩からとったもので、「みきハ京ミち ひだりハふしミみち 柳緑花紅 法名末徹」と彫られています。また、江戸時代(17世紀中頃から19世紀後半にかけて)、旅人を相手として売られていた土産絵に大津絵があります。仏立寺の石燈籠と街道に残る車石が街道の面影をとどめています。
四ノ宮
四ノ宮は仁明天皇の第四皇子=人康親王に因んだ地名で、十禅寺川(四ノ宮川)と東海道が交差するあたりは四宮河原と呼ばれていました。柳山の麓にある柳山明神は蝉丸祠といわれます。住宅地に人康親王御靈社と行者堂、人康親王墓があります。
諸羽神社
諸羽山(諸葉山・柳山)の麓にある古社。天児屋命と天太玉命の二神を祀ることから兩羽大明神と称しました。境内の北西に琵琶石があり、人康親王の山荘にあったものと伝えています。東海道の参道入口近くには、四宮地蔵があります。
毘沙門堂門跡
文武天皇の703(大宝3)年に、行基によって開かれました。本尊は根本中堂に祀った薬師如来と同木の霊像だとされています。
安祥寺
開祖は恵雲僧都で、真言宗の名刹として知られています。かつては、安祥寺山を主に広大な領地を有し、各所に堂舎僧房が建っていたようです。山麓にある現在のものは下寺と呼び、観音平付近の上寺と区別されています。
本圀寺
天智天皇陵の北側より山科疏水を渡った山手に伽藍が広がります。日蓮宗の大本山で徳川光圀の庇護を受け、本国寺を本圀寺に改めたようです。
御 陵
日ノ岡の東に広がる御廟野の山側にあたります。東海道から分かれる参道は濃い緑に覆われ、一歩入ると街道の喧噪が嘘のように静まり返っています。天智天皇陵背後の山は鏡山といい、『万葉集』にも詠まれています。山頂からは、眼下に山科盆地の眺望が得られます。
駒ヶ滝
南禅寺山(独秀峰)の山中にある修行の場です。付近は石仏や岩場が各所にみられます。滝の前の祠は、導智僧正を祀っています。
田邊朔郎墓
墓石には、「明治十六年 二十三歳ヲ以テ工部大学校卒業、職ヲ京都府二奉シ、琵琶湖疏水工事ヲ担当シ本邦最初ノ水力電気事業ヲ完成ス……」と刻まれています。水は送水管で蹴上発電所(日本初の水力発電所)へ落され、1891(明治24)年5月から送電を開始しました。その発電した電気で1895(明治28)年に日本最初の電車が走りました。また、船運の便を図るため、蹴上舟溜と南禅寺舟溜の間にインクラインを敷設し、三十石船を乗せる勾配15分の1の傾斜鉄道を設けました(全長=582m)。墓地の下にある安養寺には、かつて大日堂に安置されていたという石仏が祀られています。
琵琶湖疏水
1881(明治14)年、京都府知事になった北垣国道により、京都の産業振興を図るために計画されました。琵琶湖畔の三保ヶ崎から取り入れた水は長等山を抜け、山科の北部を山裾に沿って西へ向かいます。蹴上から鴨川の左岸に達し、伏見まで南下する全長約20kmの第一疏水と、全線隧道の第二疏水(三保ヶ崎〜蹴上、全長約7.4km)および疏水分線(蹴上〜松ヶ崎)からなります。1885(明治18)年8月に着工し、1890(明治23)年に完成しました。大津の第一隧道入口には「氣象萬千」の扁額が掲げられ、その意匠は古代ギリシャかローマの神殿を思わせます。また、蹴上舟溜の洞門には、「美哉山河」とあります。
南禅寺
臨済宗南禅寺派の大本山で、瑞龍山と号します。五山の上位に列せられ、おおいに繁栄しました。歌舞伎の石川五右衛門で知られる三門のほか、方丈・法堂・南禅院・天授庵・金地院・聴松院など、広大な境内に数多くの堂塔伽藍と塔頭を擁します。明治時代に造られた疏水分線の水路閣(水道橋)も周囲の景観によく溶け込んでいます。■全コース=[中級]、コースの一部分=[初級] |