盂蘭盆会の行事である送り火の行なわれる山として、また、東山三十六峰の主峰として、京都市民に親しまれてきた山である。
もっとも、「大」の字はこの山の西北西へ800mほど隔たった斜面を使って点されており、一般的には「大文字」の上に見える峰を大文字山と思っている人が多い。
この「大文字」がいつ頃から始まったのか、確かな記録ははっきりしないものの、二つの系統の伝説が語り継がれてきた。
一つは、主に弘法大師に関係するものである。それによると、平安時代に建てられ、その後廃寺となった浄土寺が火災にあったとき、本尊である阿弥陀如来が光明を放ちながら山頂に飛び移った。そのあと疫病が流行したときに、弘法大師はその故事にあやかって人の体を表す「大」の字の壇を設けて護摩の行を修したというものである。
もう一つは、室町時代の将軍=足利義政が、近江のまかりの陣で亡くなった義尚の冥福を祈って焚かせたというもので、周辺には当時築かれた山城の跡が今もひっそりと残っている。また、「大」の字自体の起源もいくつかあり、相国寺の横川景三和尚〔『菟芸泥赴』1684(貞享4)年〕や青蓮院門主〔『洛陽名所集』1658(万治元)年〕などの名が文献に挙げられている。
のち送り火が年中行事化して、人々の意識へ刻まれるようになると、それが一人歩きをはじめ観光化されていくようになる。現代も、それによって京都は大きな収入を得ているが、同じことが江戸時代にも既に起こっていた。
京都を紹介する案内書や絵図には、「毎年七月十六日この山に大文字の火をともす」〔京絵図/1709(宝永6)年〕というような説明がほとんど付され、よく知られていたものだろう。
平安遷都千百年記念に発刊された、『平安通志』〔1895(明治28)年〕によれば、「東山とは、北は如意嶽より南は稲荷山に至る一帯の山巒を謂う。比叡の山脈二派に分かれ、燕尾をなして南に走り、一は近江に連なり、一は蜿蜒起伏して南に下り三十六峰」となり、「京都もとより佳麗明媚をもって勝れ、そしてその風光この山を以って第一」とすると記されている。まさに、京都の風土を特徴づける景観であるといえるだろう。
最も一般的な、慈照寺(銀閣寺)の門前より入山する道筋はよく整備され、年中人の姿が絶えることはない。 |