粟田口如意ヶ嶽町(京都市左京区)に属する。
山名は、稜線の南側に如意寺があったことから名づけられたと思われ、14世紀前半に描かれた「園城寺境内古絵図(如意寺幅)」で寺院の概略を知ることができる。それによれば当時の壮大な伽藍構成が偲ばれる。この山岳寺院は平安時代に創建され、近年の調査から、本堂跡・赤龍社跡・深禅院跡・正寳院跡・大慈院跡・寳厳院跡・灰山などの地域に分かれていたことが浮き彫りになってきた(『古代文化』Vol.43 第6号)。
また、この山は通称として「くじ山」と呼ばれてきたことが『近江國滋賀郡誌』に記載されている。それによれば、山は旧藤尾村と旧志賀村の共有になっていたため、いつも肥料を取り合っていた。園城寺(三井寺)は紛争に困ってその権利を取り上げようとしたが、両村は寺の介入を許さず、以後くじによって決めたとのことである。
入会山として近江側の人々が利用していたかどうかは不明だが、地元と寺の関係を想起できる事柄である。もっとも、『京都坊目誌』〔1915(大正4)年〕には、東山の主峰として如意岳奥山の名を上げ、そこにある雨神社は「岡崎村・粟田口村・聖護院の立会山林中に鎮座」すると指摘しているので、その権利関係は複雑に入り組んでいたと思われる。 |