1065(治暦元) 年に源頼義の勧請による宇佐八幡宮が南東斜面にあり、境内には伝承をともなう名所が残っている。それによると、八幡宮建立に相応しい場所を探していたとき、数羽の鳩が岩から飛び立った。行ってみると神の足跡が残されていたという。いま御足形と呼ばれるものがそれに該当する。また、建立の際に人々が飲んだという泉水は金殿井と呼ばれている。いっぽう錦織にある「御所ノ内」や「大将軍」の字名は、その頼義の邸宅跡に由来するともいわれている。
宇佐山城に拠った森可成・信治・尾藤源内・道家清十郎らは、京に攻め上ろうとする朝倉・浅井・一揆連合軍に対し少数の軍勢で立ち向かい、奮戦むなしく戦死した。その後、坂本にある聖衆来迎寺の住持=真雄上人が手厚く葬ったという。同寺の開山堂横には可成の五輪塔が今も残る。翌年(1571年)には、比叡山焼き討ちを前にして明智光秀が在城していた。
『近江輿地志略』には、「宇佐山城跡(中略)この古城址二町四方ばかり、山上の楼台等の址顕然たり」と記されている。
山名に関して、『近江國滋賀郡誌』の「錦織村誌」には城ノ峰という地名も見える。宇佐山そのものを指しているのか、北は見世、南は錦織に属するとしているだけで、所在がはっきりしない。残念ながら、附図には未掲載である。 |