江戸時代中頃の地誌である『雍州府志』によれば、八坂神社の祭神が八坂の地に祀られる前はこの地に一時鎮座した。そして、その牛頭天王がキュウリを好んだため瓜生山と称したとある。
瓜生山山頂にあった勝軍山城(北白川城=本丸)は、白鳥越の延長線上にあって、雲母坂ににらみをきかせ、近江から入京する者への前衛基地としての役割を担っていたと思われる。1778(安永7)年の「山城國全圖」などには、白鳥越を「江州穴太村へ出る、一乗寺村より」として、曼殊院と勝軍地蔵の間に道が描かれている。しかし、テンコ山(天高山)からこの山につづく尾根道もそう呼ばれていた可能性があり、実際この山の北側は一乗寺(松原町)に属する。
細川高国が1520(永正17)年に、初めてここに陣を構え、その戦勝を祈念して勝軍地蔵を勧請したようだ(『二水記』)。1546(天文15)年には将軍足利義晴と晴元の対立から、義晴が大規模な修築を施したことでも知られる。付近にはデマル・ヤカタヤマなどの地名が残り、城郭との関連が深い。
また、北東側のピークには、東山新城(出丸)と呼ばれる山城があり、応仁の乱の最中に若狭守護武田信賢が通路を確保するため築城したと『二水記』1531(享禄4)年6月の項に記されている。ちなみに、この場所は北白川蓬ヶ谷町に属する。
このように、近江との交通や京都とのかかわりから、数多くの地名が残っており、それらの同定が白鳥越(青山越)の解明につながるものと思われる。
「白川村志」(『旧京都府愛宕郡村志』)に取り上げられた、山岳に関係ある字名および小分け地名を以下に列挙する。
瓜生山……目空尻・名無谷・五郎兵衛谷
清沢口……鍋谷・大亀谷・尻高・七廻り・望キ谷・水洞院・黒岩
地蔵谷……木梅谷・水谷・芝ヶ平・蛇谷・具足谷・盲谷・城所谷・不動谷・地蔵谷・続キ谷・
百合谷・天狗原・馬頭山・境ヶ谷・盗人谷・鷺ヶ森
蓬 谷
岩 阪……蓬谷・岩阪・地蔵谷・猪ノ鼻 |