比叡山の東麓、坂本(大津市)辺りからこの山を望むと、壺を置いたような山容がひときわ目につく。
主稜線から湖岸へ下る尾根の末端だけに見通しもよく、山城を設けるには最適の地であった。しかも、白鳥越(古道越・青山越)の古道が通る重要な位置だけに、青山とともに歴史にも数多く登場する。今も山上にその遺構が残っている。
1336(建武3)年、比叡山にこもる後醍醐天皇と比叡山を取り巻いた足利尊氏が、戦の際に白鳥越に軍を進めたことが記録に残っている。このときは四ツ谷川を挟んで対戦し、平子谷が数百人の死者で埋まったという。
また、1570(元亀元)年に延暦寺の支援を受けた浅井・朝倉連合軍は湖西路を南下し、「はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取」り、織田信長方(宇佐山城)と対峙した。さらに逢坂を越えて醍醐や山科を放火した(『信長公記』・『言継卿記』など)。このとき摂津の三好三人衆と戦っていた信長本人は急きょ京都に戻り、白川から穴太にかけて布陣した。勝軍古城(北白川城)でも連合軍に対処したといわれている。
この動きをみても明らかなように、今路(道)越(山中越)が整備される室町時代まで、白鳥越は、穴太から京都をつなぐ道として盛んに利用されたようである。 |