山名の由来は明らかでないが、釈迦ヶ岳もかなり通用する。横高山の名称は、1908(明治42)年測図の五万分の一地形図にも記載されており、こちらが一般的である。
比叡山はもと日枝山と記され、それは牛尾山・八王子山・波母山・山王山を指していた。牛尾は「主穂」が転訛したもので、主人(神)に初穂を捧げるという意味であり、八王子は「初穂」の転音であるといわれている。
いずれにせよ、山麓における古墳祭祀と磐境祭祀の合一した姿として、東本宮系(二ノ宮)信仰の母体となるものであろう。その後、仏教の広まりの中で小比叡ノ峰として位置づけられるようになった。
影山春樹氏は「日吉社祭祀考」の中で、波母山(横高山東側中腹、標高750m)にも、山王二宮を祀る石造の小祠と二宮釣垂岩と呼ぶ巨岩があり、回峯行者の手文に「二宮夷 本地薬師社小比叡、有椙木、下有社大巌」と記されていることを指摘されている。したがって、波母山・小比叡ノ峰は、この横高山と八王子山の両方に使われており、案内書などには錯綜した使い方もみられるので注意が必要である。
同書によると、『日吉社禰宜口伝抄』には、牛尾山の磐境「金大巌」のほかに、もう一つ「奥之御蔭大巌」があり、前者は大山咋神命の御陵で、後者は玉依比売命の御陵であったと記されていることから、氏は奥の波母山こそ日枝の神々の「奥津巌境」であり、牛尾山頂は「中津巌境」になり、東本宮の祭祀場が「辺津巌境」にあたるという構想も成り立つと述べられている。
その後の研究で、村山修一氏は「八王子山が神体山であることは明らかだが、その奥の小比叡ノ峯もそれとは別個の神体山とみなければならない。むろん大比叡峯は比叡山で代表的な神体山であり、こうして少なくとも三つの神体山が原始時代からまつられていた」と結論づけられている(『比叡山史』)。
また、伝教大師の歌に「波母山や小比叡の木椙の一人居は嵐も寒し問う人も無し」という一首があって、そこから寒嵐岳と呼ばれることもあった。
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