山名の由来は明確でない。北山クラブによる『エアリアマップ京都北山1』にその名が見えるだけで、同クラブの他の著書には記載されていない。
北面の標高500m近くまで土砂の採取が行なわれており、花折峠(高坂峠)やその峠道から望むと痛々しい姿になっている。
北側にある途中は、無動寺を開創した相応和尚によって、葛川明王院と無動寺の中程にあることから生まれた地名(『近江輿地志略』)とされ、橡生とも書いた。
ここは、京都と若狭を結ぶ若狭街道(敦賀街道)が通っており、また、和邇(志賀町)に至る若狭別街道の分岐点でもある。今も昔も交通の要衝であることに変わりはない。
その三叉路に、現在は上半分が欠損した「右 京道、左 堅田」の石造道標〔1778(安永7)年、桑村彦右衛門建立〕が建ち、その往来の重要さを偲ぶことができる。
花折峠より流れる途中川と、西から下ってくる西出川の合流点より東の小高い丘には、「途中の堂」として親しまれる勝華寺がある。ここは、葛川夏安居(葛川参籠)の行では、峠越えを前に休憩するところとされており、鎌倉時代の銘が入った水盤(水船)が残っている。 |