伝教大師最澄は、767(神護景雲元)年8月に近江国滋賀古市郷に生まれ、12歳で出家し奈良で華厳・天台などの教学を勉強したといわれています。785(延暦4)年に東大寺戒壇院で具足戒をうけ、比叡山中に草庵を結び、経論の研究と実践行(魔訶止観)に励みました。788(延暦7)年に比叡山寺を開創、薬師如来像を安置する堂宇をかまえたようです。一乗止観院(根本中堂)のはじまりです。794(延暦13)年、桓武天皇の行幸があって大供養会が営まれ、平安京の守護と鎮護国家の役を任ぜられました。これが、都の鬼門にあたる艮(東北)に位置するため、そこに寺院を建立して王城の護りにしたという伝説を生むことになります。そして、来年(2006年)開宗1200年を迎え、いろいろな行事が予定されています。
西塔と東塔については、修行の聖域である「法界地」を定め、九院・十六院の堂舎を建立しました。その範囲(四至)として、『山家最略記』には「比叡峯寺大略地三六町、周囲四方各六里(四十丈為一町、六町為一里)」とあって、修行する僧は悲田谷(東)・水飲(西)・般若寺(南)・楞厳院(北)に限られた域外へ出てはいけないと定めています。
寺域は広い範囲にわたっているため、三塔(東塔・西塔・横川)十六渓として区分されています。
東塔……北谷・南谷・西谷・東谷(八部尾・虚空蔵尾)・無動寺谷の五渓
西塔……東谷・南谷・北谷・南尾谷・北尾谷の五渓
横川……般若谷・香芳谷・戒心谷・解脱谷・都卒谷(兜卒谷)・飯室谷の六渓
また、別所渓として、東塔の神蔵谷、西塔の黒谷、横川の釈迦院・帝釈寺・安楽谷があります。
比叡山には三魔所と呼ばれるところがあって、大切にその地点が維持されています。とくに、旧跡付近は植生も大事にされてきたため、いくつかの巨木が現存しています。
御廟ノ森(横川)……ブナ
天梯ノ峰(東塔)……スギ・ブナ
慈忍和尚廟(飯室谷)……スギ
山中には数多くの水場があり、修行僧の生命を守ってきました。三塔の名水には以下のものがあります。
・東塔
護法水(南谷)・地蔵水(南谷)・青蓮水(谷)・延命水(延命院)・茅下水(薬樹院)・閼伽井(本願
堂)・明星水(北谷)・蛇ヶ池(四明ヶ岳)・香水井(赤山禅院)・下ノ水飲(赤山)・閼伽井(明王堂)
相応水(不動坂)
・西塔
石泉水(北谷)・青龍池(黒谷)・浄名水(黒谷)・大黒滝(黒谷)・雲井水(東谷)・独鈷水(南谷)
閼伽井(北尾谷)・行者秘水(回峯行者が使用)
・横川
如法水(横川中堂)・洗袋水(都卒谷)・閼伽井(飯室谷不動堂)・閼伽井(飯室谷松禅院)・碧玉水
(般若谷)・寂静水(解脱谷)
歴史のなかで最大の危機は、織田信長による比叡山焼き討ちでしょう。1571(元亀2)年「九月十二日、叡山をとりつめ根本中堂、山王二十一社を(中略)焼き払い灰燼の地となすこと哀れなり」――『信長公記』にはこのように記載されています。
古代から中世にかけて、延暦寺は各地に広大な荘園を領し、強力な武力を備えて一つの独立国のような権力を擁していました。全国の統一をめざす織田信長にとって、それは破壊せずにはおられないものであったと思われます。中世から近世にかけて社会や経済が発展し、時代のうねりの中で焼き討ちを招いたのは、延暦寺自身だったということもできるのではないでしょうか。
その後、根本中堂は1642(寛永19)年に再建され、他の堂舎も概ね寛永年間に再建されました。