1年ほど前に伊豆諸島北部の山旅へ出かけたが、船の欠航で神津(こうづ)島の天上(てんじょう)山には登れなかった(利島を歩く)。そこで、時期を1ヶ月遅らせて計画する。
前島港に入港後、黒島登山口から登り始めた。標高差350mの急登をジグザグに折り返すと、「オロシャの石塁」と呼ぶ石積みの跡に着く。江戸幕府が外国人の上陸に備え、文政期に築いた約300mの防塁だ。千代(せんだい)池の畔から黒島展望台に登って、大きな火口と外輪山を眺める。小さなピークと凹地が連なり、島の山とは思えないスケールある風景が展開していた。 天気予報では午前中が10m/sの東風。今日は観光で山頂まで登るのは難しいだろう。砂地が広がる裏砂漠では細かい粒子が顔に吹きつける。北東面が開けると式根島・新島が海上に浮かび、足下の岩壁と崩土壁が荒々しい。 櫛ヶ峰の西側には不動池があり龍神が祀られていた。漁師による信仰が盛んで、近くには不動尊と大日如来の小祠もある。山上の陥没地に満々と水を湛え、ババア池など他にも小さな池が点在する。不入ヶ(はいらずが)沢を左手に見ながら最高地点に向かう。伝説では伊豆の神々が水の配分をめぐって相談したところとされ、人が近づいてはいけない聖域である。 最高地点と細かい砂に覆われた表砂漠を往復し、白島登山口へ下山する。不動尊の鳥居をくぐって道路に出た。つづいて高処(こうしょ)山の東面をトラバースして秩父山をめざす。 北側の登山口から登り始めると、死者の供養のために祀られた石仏が次々と現れる。山頂の秩父堂には秩父三十三霊場に眞福寺(大棚観音)が加えられ、三十四の観音があると説明板に記されていた。日本百観音霊場のひとつで、文暦元(1234)年の開創と伝わる。島では、葬儀の後に縁者がまとまって参拝する習わしがあった。一人一枚のツバキの葉を持ち、34人で一札になる。二札・三札と参ることで、故人が極楽往生できると信じられていた。 三浦湾展望所を経て前浜の集落へ戻る。行動は6時間。標高差1,000m以上の登下降となり、あなどることができない島の山歩きになった。 山上ではオオシマツツジの花がほとんどなかったものの、中腹ではまとまって咲いている場所もあった。シマテンナンショウはすでに花が終わって大きい緑の葉を茂らせている。サクユリも葉を何層にも伸ばしていたが、スミレ以外に咲いている花の種類は少なかった。 出航までの時間を利用して、流罪になった僧侶などの墓地や江戸時代の聖女=オタァ・ジュリアの石碑などを訪ねる。なかでも、「明神さま」として親しまれる物忌奈命(ものいみなのみこと)神社は静寂で好ましく、境内の広い樹林も見事だった。新しい船が進水すると琴平社に詣でる習俗も残っているらしい。 島内に数箇所ある月待塔は、特定の月齢に集う信仰である。経を唱え飲食をともにする講が、江戸時代を中心に盛んだった。二十三夜が多いとされる。この島らしい風景といろいろ出合え、有意義な滞在時間になった(2023.4.23/4.24)。 |