戦国時代の三好長慶(みよしながよし)によって築かれた静原城は、岩倉の土豪=山本対馬守(実尚)によって守られていた。将軍=足利義昭方について織田信長に背いたため、明智光秀の軍に包囲され落城したという。空堀や土塁・曲輪のほか破壊された石垣・石段が点在して、中世の山城としては良好な状態をとどめている。 「京都再発見」の講座で、岩倉上蔵(あぐら)城跡を昨秋に訪ねたので、引きつづき山本氏の大きい山城跡へ出かける。鞍馬から薬王(やっこう)坂を登って、天ヶ岳への尾根に入ると白土峯経塚(元禄4=1691年)があり、その先には平迫峯経塚(貞享3=1686年)の標石が立つ。これらは鞍馬寺の経塚巡拝行のルートにあたり、南側の竜王岳(500m)にも御向山経塚(元禄14=1701年)と竜王岳経塚(貞享4=1687年)がある。戸谷峰の山頂で昼食の時間をとり、城谷(じょうだに)山(城山)へ向かう尾根に入る。分岐付近には静原を示す標識が立つので注意したい。その道は水谷に下る。 倒木などでやや不明瞭な尾根道はピークを巻きながら南下し、本丸があった480m標高点に近づくと堀切を通過する。その上部は平坦になって中心部に到着。保護のためかロープが張り巡らされている。説明板があり、歴史的な経緯や構成がわかるようになっていた。392.1mの四等三角点(点名=裏ノ谷)付近に二ノ丸があったとされるが、光秀が山上を攻めるために築いたとする見解もある。 午後は雨が降る予報だったので、あちこち寄らずに急峻な道を静原神社へ向けて早めに下山した。中腹の明るい尾根ではツツジが咲き始め、ヒサカキの匂いに包まれる(2023.3.21)。 |