鳥羽街道は、羅城門から南下して淀(納所=のうそ)に通じる古代の「鳥羽作道(とばのつくりみち)」から始まった。多くの河川が合流し、巨椋(おぐら)池も広がっていたため、時代によって位置が移動している。流路の自然な変遷だけでなく、豊臣秀吉による土木工事が大きく影響してきた。 納所・草津湊(横大路)・鳥羽は水上交通・輸送の要衝で、京都を支える地域として社会・経済は繁栄を極めた。沿道の立派な建物や地上から石積みで嵩上げした家屋を見ると、たどってきた歴史を感じることができる。現在は国道や高速道路が別に整備され、通過する車両は比較的少ない。そのため、旧街道の趣を味わうことができる。 「京都再発見」の講座で、巨椋池干拓地から淀城跡を昨年歩いたので、つづけて歩こうと企画した。まず、納所の五番橋で淀古城の痕跡を目にし、桂川が近づいた辺りからしばらくは堤防を進む。葉を落としたエノキの大木と1662(寛文2)年の地震被害による二条城修復のための大石(「草津みなと残念石」)を経て羽束師(はづかし)橋に達した。 橋の中央まで行って桂川と鴨川の合流点を確認。北側は雪雲が次々と流れ込むが、南側は青空が広がっていた。少し上流の西高瀬川合流点一帯は河川の整備工事中で、川底から引き上げられた「鳥羽の大石」だけを確認しに河川敷へ降りた。 下鳥羽まで来ると、1675(延宝3)年創業の酒蔵が美しい。主屋は「京都を彩る建物や庭園」に選ばれている。白河天皇が造営した鳥羽殿跡から小枝橋を西に渡る。付近は鳥羽伏見の戦いが始まったところで、途中にも戦死者の供養塔などがあった。 ここからは鴨川右岸を北上する。徐々に川から離れ、九条通の矢取(矢負=やおい)地蔵の裏に立つ羅城門址の標石まで行って解散した。きょうは「弘法市」の立つ日なので、大半の方は境内へ(2023.2.21)。 |