先月(鹿背山を歩く)に引きつづき、「京都再発見」の講座で木津川流域を歩く。井手町の「玉水」駅を出発し、玉水橋を渡って三山木(みやまき)から飯岡(いのおか)丘陵へ。その後は草内(くさうち)から坊賀(ぼうが)川に沿って「新田辺」駅までを予定している。 ヤマブキとサクラが美しい玉川は冬枯れの状態で、説明を済ませて木津川の西岸へ向かう。川幅のある開けた風景は大きさが感じられ、右手に茶畑の目立つ飯岡丘陵が横たわる。まず壽寳寺に寄って、古代の官道にあった山本驛(うまや=駅家)を偲ぶ。ここには、三宅安兵衛(明治時代に京都市中京区在住の博多織商)の遺志を受け継ぎ、息子の三宅清次郎(西陣帯地卸商)によって昭和初期に建てられた標石・道標(間違った方角で移設されたか?)があり、ほかに京田辺市内では40基ほど現存する。同様の様式を持つ標石・道標は京都市内から山城地域を主に400基に及ぶという。 飯岡南原の墓地には穴山梅雪(あなやまばいせつ=本能寺の変で、徳川家康とともに堺から伊賀越へ脱出を図る途中に亡くなった武将。死因は諸説あり)と伝わる墓があり、近くに車山古墳や蓮華寺遺跡を示す標石が並ぶ。丘陵の最高部は薬師山(櫻井)古墳で、西側に「椀子王(まりこおう)古墳」と彫られた標石のあるゴロゴロ山古墳がつづく。丘陵一帯が古墳群になっている。広い台地に飯岡(点名)の三等三角点(66.8m)があるので、みんなで降り積もった落葉を掻き分け標石を探した。 木津川畔で渡し場と万年樋〔豊田武兵衛(とよだぶへえ)による江戸時代の用水掘削事業。没後に完成〕の石碑を確認ののち、咋岡(くいおか)神社(飯岡)に参拝。石垣で嵩上げされた家々の間を草内へ下る。西川橋で普賢寺川を渡り、山城国一揆の草路(くさじ)城跡とされる咋岡神社(草内)の杜に入ると、本殿(江戸時代中期)周りの紅梅が鮮やかだった。近くの法泉寺では重要文化財の十三重石塔が目立つ。貝塚伊吹(ヒノキ科)の老木も見事だ。川沿いの公園を通って駅前で解散。 気になっていた、天井川の煉瓦造りトンネルへ寄り道する。甘南備山を除き、これまで歩く機会がなかった京田辺市。京都府の景観資産になっている「玉露の郷」だけでなく、地域を大事にする人々と歴史を知ることができて、有意義な一日になった(2022.2.15)。 |