探山訪谷[Tanzan Report] |
No.22【音羽川左岸の石切場(石切丁場)】 |
上=現在も砂防の機能を果している石積み堰堤(昭和15年施工) 中=石切場(石切丁場)付近の斜面には、何段もの石積みや石垣が残る 左下=現場に残る平坦地。日当りがよいため、巨大なタケニグサが目立つ 右下=丁場から見た京都市北部の市街地 |
一乗寺にあるテンコ山(442.5m)の北西面に、かつて大規模な石切場(石切丁場)があった。近世から近代までかなり長期にわたって稼動していたと思われる。音羽川本流に残る昭和15年の堰堤もこの付近から採石して使用され、戦後の治山事業でもその役割を果している。本流筋の各種工事には、それぞれ施工年の銘板が取り付けられ、変遷がよくわかる。 1972(昭和47)年9月の水害では、テンコ山の北面が崩落(「カマクラの大崩壊」)し、その下流にあった石切場(石切丁場)の石屑や捨石が土石流となって被害を与えたといわれている。標高230mにある昭和13年の石積み堰堤もかなりの損傷を受けた(昭和10年の災害以降、3箇所に石積み堰堤を構築)。現在、カマクラの音羽川左岸には多くの鉄製蛇籠(じゃかご=籠の中に栗石や砕石を詰めたもので、古くは竹や鉄線で造られた。河岸を保護するため、その法面などに設置)が見受けられる。弁天道(京道)にある掛橋からテンコ山の北東に向けて続く旧車道は、その工事用ものではないだろうか(一部、伐採用)。二次林のなかに、その事業で使われたと思われる油や消耗品の空き缶があちこちに残っている。 明治時代以降で、最も多く採れた丁場は「雲母坂」だとの証言(北白川・内田鶴次氏)もあり、現在残る平坦面の面積が大きいことも納得できる。採石は昭和10年代まで続けられた。 歴史・社会との関連で山や自然を捉えると、山歩きに新しい発見が加わって面白い。 |
「京都市都市計画基本図《修学院》」に加筆 |
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