山陰街道(老ノ坂〜並河)を先日歩いて、天気のよい日につづきを園部までつなぐ。 鯉の伝説に因む大井神社からスタートし、集落のはずれを北上する。田園に趣ある街道が加わって好ましい風景である。大井町の山陰本線と国道9号を渡ると千代川町小林で旧道に合流し、角に道標がひっそりと佇んでいた。 千々(ちち・ちぢ)川を過ぎると小川月読神社で、ほどなく千代川小学校の前に着く。校門は亀山城三ノ丸の新御殿門を移設したもので、近くに千代川村道路元標があった。千原では千代川遺跡の発掘調査が行なわれていて、藤越神社を囲むように現場が広がる。神社の創建は古いものの、天正年間に消失して詳しいことはわからないらしい。元文5(1740)年の銘が入った鳥居・石燈籠が残る。東側の堤防は国道9号である。 「右 あたごみち」の道標を見て進むと山陰本線の踏切で、国道と合流する手前で再び線路を西に渡る。川関(中土井)の曲がり角に塞の神が祀られていた。文字は判読できなかったが、現地では自然石の道標だと感じた。 八木町に入ると国道は街の西側にそれる。だが、路線バスの通る本町が旧道である。歴史を感じる屋並みがつづく。町並みが途絶えると堤防になって竹藪が広がる。堰はあるものの、洪水に備えた土地利用を示す。八幡山の南端では道路を遮断する堤と扉を目にした。灌漑用水の施設だけではないような印象を受ける。 鳥羽は宝永年間(1704〜1711年)に設けられた宿で、最盛期には70軒ほどあって賑わったという。落ち着いた佇まいにその繁栄が見てとれる。桂川と園部川が合流する辺りは水天坂と呼ばれ、たびたび水害が発生したので水天宮が祀られた。以後、水天坂が切れることは無くなったと説明板にある。 「吉富」駅近くで国道9号に出て、西側の歩道を園部まで進む。駅近くで旧道に入り、新町から本町・上本町と街道筋を歩く。園部大橋の交差点に天保7(1836)年の道標が残る。稲荷神社の玉垣に接するのですべては判読できないものの、以下のような地名が彫ってあった。「すく 京/亀山/右 大坂/左 若州」「すく たんご たじま □□□/右 若州/左 大坂」。そのほか、園部の各所を示す地名がいくつも見える。 街道歩きはここまでにして、宿場の景観を求めて周回する。川畔に西田音吉屋敷跡の標石があり、石積みと庭園跡を思わせる空間があった。帰宅後に調べてみたが、何人かの候補が出たものの人物を特定することはできなかった。寶福寺から若松町の浄教寺やカトリック丹波教会園部聖堂の前を通って「園部」駅まで20分ほどかけて戻る。 明治32(1899)年に京都からの鉄道(京都鉄道)が園部まで開通した。その際に、町の中心から離れて駅が設置された。丹波篠山も同様で、福知山線から城下町の市街は離れている。当時の住民の認識と意識を垣間見るような距離感だ(2025.1.18)。 |