探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.1【一乗寺(京都・比叡山)の石切場(石切丁場)】
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上=井手ヶ谷でもっとも規模が大きい石切場(石切丁場)跡。周囲には石垣のある平坦地や堆積したズリが目立つ
左下=露岩の高さは約15m  右下=岩場の上からは、大比叡(848.3m)がすぐ近くに望める
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 一般的に「比叡山」といえば宗教の山で、登山とは無縁だと思われてきた。しかし、四明岳(838m)の南面には、この山域でもっとも自然度の高いエリアが広がっている。そして、思いもかけない歴史が隠されていた。今は忘れ去られてしまったものの、かつて「白川石」を切り出す石切場(石切丁場=採石場)が何箇所も存在したのである。古くより都や寺院の造営に欠かせない石材であったが、墓地への埋葬を義務づけた明治時代に需要が急増したと思われる。

 明治25(1892)年発行の仮製地形図「大津」(二万分の一)では、音羽川流域に五箇所の石切場(石切丁場)が記載されている。また、大正11(1922)年の五万分の一地形図「京都東北部」には、音羽川上流の二箇所がなくなり新たに表記された地点もある。その後、資料修正版(昭和35〔1960〕年)まで記号が載っているものの、実質的には大正末期から昭和初期までに切り出しは終了したようだ。

 これまでの調査によって、その概要が判明してきた。確認できた事柄は上の図版に示したとおりである。音羽川本流に注ぐ支谷の出合付近と本流筋は、砂防工事による堰堤や土止めが施され、残念ながら現在ではすべての石切道が途切れている。

 井手ヶ谷のもっとも東に位置する石切場(石切丁場)は、標高が他の地点に比べて高く、一乗寺とはいえ大津や琵琶湖しか望むことができない場所にあった。山麓まで運び出すには、条件的にもいちばん困難な現場であり、早くに衰退したと思われる。だが、周辺に残る石垣や石積みの数、あるいは破片を捨てたズリ場の規模をみると、最盛期にはここがもっとも稼動していたという印象を受ける。

 また、石切道・石切場・遺物(粗加工した石材)を合わせた全体像では、花ヶ谷上部の丁場(字名は長尾、道は黒目ヶ谷から尾根を越えて続く)が当時の様子をよくとどめている。
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