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*以下の考察(白川石と石切道)は、「比叡山系を歩く」(2003年)より抜粋して掲載しています。
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音羽川下流露頭
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粗加工された石
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*左上=石切場から音羽川下流を見下ろす 右上=石切場の露頭
下=放置された「白川石」
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 音羽川流域と白川流域では山中に露出する良質の岩を切り出し、加工する石材業が発達していた。
 北白川(京都市左京区)には、現在でも西村姓を名乗る石材店などがそれを生業にしている。
 「白川石」や「白川砂」の需要は、都の建設と大いにかかわりがあり、平安時代には既に「石売女」や「白川石工」という名前で取り上げられている。前者の意は、女性が石を売り歩いたということであろうか。専業として成り立つのは近世になってからだが、石切りは農閑期の仕事として定着していったようである。
 鎌倉時代は、石造美術の全盛期といわれるほど、製作された点数や職人の技術が高揚した時代である。比叡山系に残る数々の仏像や宝篋印塔が、その水準を現代に伝えている。
 白川の名が世間に広く知られるようになったのは、江戸時代のようだ。この頃になると記録が残り、その実体を垣間見ることができる。たとえば、1662(寛文2)年7月16日の一乗寺渡辺家文書によれば、二条城の石垣用として一乗寺山より石を切り出し搬出するための、取り仕切り要項が残されている。その内容は石材の寸法と数量、それに対する割り手間賃ならびに搬送方法などで、希望に応じられる態勢をとることが可能なこと、さらに事故処理にまで言及している。この年は春に京畿大地震が起こり、二条城も被害を受け、その修復のためと思われる。
 また、『都名所圖會』には、図版とともに「北白川の里人は石工を業としてつねに山に入りて石を切り出し、燈籠手水鉢その外さまざまのものをつくりて商う」と記している。
 明治時代になると、墓地への埋葬を義務づけた「墓地及埋葬取締細則」が定められたため、墓石などの需要が多くなった。明治40年代には、京都市の墓地は465箇所、面積は約4万平方メートルに達しており、産出量も増えたものと思われる。
 1892(明治25)年の二万分の一地形図「大津」を見ると、音羽川流域では左岸に一箇所、右岸に4箇所の石切場が表示されている。また、瓜生山の清沢口と大文字の太閤岩にもあったことがわかる。
 それが、1922(大正11)年発行の五万分の一地形図「京都東北部」では、音羽川右岸の上部二箇所と太閤岩がなくなり、代わって清沢口で一箇所増加している。
 その後、1960(昭和35)年の一色刷地形図(資料修正版)までは、そのまま記載されているものの、実質的には大正末期に切り出しは終了したようである。
 白川石だけの統計ではないものの、「府統計書」〔1903(明治36)年〜1920(大正9)年〕による数値をみても、その推移は明らかである。花崗岩の扱い個数は、1905(明治38)年には19896個(1万9千円)だったのが、1911年(明治44)年に最盛期を迎えて616633個(11万7千円)に達し、記録がなくなる1914(大正3)年には309280個(8万1千円)と半減している。以後、他産地のものを取り扱ったせいか急激に数値が膨らんでいく。

 黒目ヶ谷を遡る石切道は、標高540m付近で谷を離れ右岸の斜面へと登っている。広葉樹林の中を折り返しながら尾根に達すると、そこから水平道となって石切場へ向かう。搬出にはどのような方法がとられたのだろう。道幅は1.5m以上あり緩い勾配でつけられている。
 現場の手前にある曲がり角から谷筋を見下ろすと、白く光る谷芯と落下した大きな岩が点々と目につく。谷の下流は開けていて、一乗寺方面がよく見通せるところだ。
 広い道の終点には、石垣に囲まれた広場があり、粗加工された石がいくつか残されている。岩場は高さ約15m、掘り進んだためか中央が窪んでおり、今は風化した表面をさらしているにすぎない。硬質の岩は完全に枯渇したといってもよいだろう。
 広場の一段上にも小広い平地があり、炉の跡と使われていたと思われる破損した薬缶が転がっている。
 石の切り出しには、ここに仮小屋でも建てて寝泊まりし、仕事に従事したのだろうか。1889(明治22)年頃の石工の賃金は、一日に80銭から1円20銭で、大工や左官が概ね50銭から65銭であったことと比べると、かなり高い水準だった(「京都勧業統計報告」)。だが、その作業実態はたいへん危険で過酷なものだったことは、この石切道を歩いてみれば想像に難くない。
 なお、掛橋から先の搬出ルートについては、地図上からは無動寺道(弁天道)が最も可能性が高いものの、白鳥越や音羽川に沿ったルートも利用されたに違いない。
 いっぽう、下流左岸の石切道は、音羽川に沿って修学院に降ろしたものと思われる。流れを渡りながら続く実線が、資料修正版〔1960(昭和35)年〕五万分の一地形図まで記載されていた。

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