北摂西部の黒川・青野川流域は行きにくい地域で、これまで数えるほどしか出かけたことがない。秋のマツタケ収穫期と冬の猟期は入山できないところも多く、後回しになっていた山域である。 新緑の山里を訪ね、摂丹国境稜線にある三国ヶ岳(母子=もうし)と愛宕山を、三田市側から入山して丹波篠山市側へ横断しようと出かけた。東の羽束(はつか)川との間には後川(しつかわ=丹波篠山市)の三国ヶ嶽(三等三角点。点名=天上畑)があり、区別するため地域名をつけて呼び習わしている。こちらは三田市の最高峰でもある。愛宕山は龍蔵寺の愛宕堂が山中にあり、勝軍愛宕地蔵尊は武士によって信仰された。この二山と西側にある中ノ尾を合わせて太平山(たいへいざん)と総称し、回峯行が行なわれてきた。 永沢寺(えいたくじ=地名)にある永澤寺(ようたくじ)は通幻(つうげん)禅師〔元亨2(1322)年生〕によって開かれた寺院で、母子の地名に関わる伝承がある(「子育て幽霊」)。バスの終点から丹波篠山市へ越える美濃坂峠に向かい、茶畑の間から三国ヶ岳をめざす。頂上では東〜南方が開けていて、北摂の山なみを望むことができた。残念ながら、北東にある弥十郎ヶ嶽は木々に隠れて見えない。 母子まで戻り、青野川支流の新田川を遡る。観音堂を過ぎると左手に稲荷神社(天狗岩稲荷)の鳥居が立ち、上から大岩が迫ってくる。茶畑跡を回り込めば、国境稜線に石仏が祀られていた。緑豊かな樹林をひと登りで愛宕山の肩に着く。山頂では北面が開けていて、今度は播磨北部から丹波の山々が波頭のごとく連なっていた。眼下に篠山城址も確認できる。 北西側の急峻な尾根を降り、トラバースして愛宕堂を訪ねる。参道の石段と鳥居は崩れ、ロープで規制されていた。周囲に石積みの平坦地が広がるので、以前はかなり栄えたものと思われる。地形図の徒歩道を外して龍蔵寺の前に降り立った。六甲などで馴染みの法道(ほうどう)仙人(インド出身)による開山とされ、文保寺・高仙寺とともに「多紀三山」のひとつに数えられる。田口池で愛宕山を振り返り、時間があるので真南条中(まなんじょうなか)から福知山線の「南矢代」駅まで足を延ばした(2024.5.10)。 |