「京都再発見」の講座で、宇治の木幡(こはた)から炭山へ越える旧長坂峠に出かけた。現在は府道242号(二尾木幡線)が通じるものの、古くは少し南側に峠道があった。せっかくなので、黄檗山萬福寺の東に位置する高峰山(高峯山)も一緒にトレースしたい。ただ、周辺にはゴルフ場が広がるので、山の良さは山上の一部でしか感じることができなかった。 江戸時代の『雍州府志』(黒川道祐)では、高峯(こうほう)は「万福寺の主山也」と記され、寺院と山は一体だったことが窺われる。また、明星山は「御室戸(三室戸)山の頂に在り。聖護院門主……大峯に入りたまう時、……先ず……七箇日の間、護摩を修す」と特筆している。両山の間にある五雲(ごうん)峰はゴルフ場内のため立ち入ることができず、炭山から志津川に沿って迂回してから登り直した。 かつて、長坂峠の山中には地蔵尊が祀られ、旅人の安全を見守ってきた。場所は不明ながら西国三十三所巡礼の「女人道」としてよく利用されてきたため、その信仰は盛んだったと思われる。六地蔵に「長阪(長坂)地蔵」の道標が残る。第十番札所の三室戸寺から、順道は第十一番の上醍醐・准胝(じゅんてい)堂に向かい、第十二番の正法寺(岩間寺)へつづく。 女性の巡礼者は、女人禁制だった上醍醐・准胝堂を避けて「頼政道」から長坂峠を越え、炭山にあった醍醐寺女人堂で男性の巡礼者と合流し笠取へ向かうのが一般的だったらしい。そのため、巡礼者にとって重要な峠のひとつであった(寛政年間の記録)。天保年間になると、下醍醐に女人堂が設けられたのでそこまで行動を共にし、女性は横嶺(よこみね)峠を越えたという。 明星山は、志津川(しつかわ)と明星町の間にある用水路跡の橋を渡って尾根に取り付く。植林地を登ると、やがて雰囲気のよい広葉樹の林に変わった。途中に大きなヤマモモの木があったり、市街地近くとは思えない環境である。210mのピークを越えて山頂に到達。残念ながら、ここも眺望はまったくなかった。 長坂地蔵は明治10(1877)年に木幡正中(しょうなか)の正覚(しょうがく)院に移され現在に至る。もっとも、寺院そのものも応仁の乱の兵火で木幡山麓から現在地に移転・再建されたという。道端でマンサクの花が咲いていた(2024.2.20)。 |