宇治街道は墨染(京都市伏見区)から宇治屋ノ辻(宇治市)を結ぶ古い道である。六地蔵札ノ辻(宇治市)で髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ=大津市)から山科盆地を南下する東海道・奈良街道と接続し、伏見の船乗り場にも通じる。豊臣秀吉による大プロジェクトで宇治川と巨椋池(大池)が分離されてからは、小倉堤が京都と奈良を結ぶ大和(奈良)街道として発展した。 今回は宇治橋を起点に六地蔵まで歩く。宇治橋一帯は『源氏物語』「宇治十帖」にかかわるものが点在する。永暦元(1160)年創業の通圓(茶屋)から府道7号を北へ渡ると東側に東屋観音があり、旧街道との分岐に「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子御墓 北三町」の標石と道標が立つ。複線になったJR奈良線の片側は、開通当時の赤煉瓦の擁壁だ。まず、莵道稚郎子尊宇治墓(丸山古墳)に寄り、付近にあった浮舟宮跡の石碑も見る。宇治川の右岸では太閤堤(たいこうつつみ)が復元され、頁岩・粘板岩の石積み景観が広がっていた。ここは槇島堤の一部で、往時の護岸は2メートル下に埋まっているという。 三室戸から戦(たたかい)川・新田川を渡ると右手に楠玉龍王碑を見る。京都大学宇治キャンパスが近づくと、明暗(みょうあん)寺を開いた虚竹(きょちく)禅師の墓が築地塀の内側にあるようだ。道路際に標石を認める。黄檗(おうばく)公園への道を街道から東の踏切に向かうと、鳥居の沓石が道路を挟んで並び立つ。かつて、柳山にあった許波多(こはた)神社(五ヶ庄)の一ノ鳥居跡である。火薬貯蔵庫(旧陸軍)のために、御旅所だった現在の地へ遷座を余儀なくされた。広芝ノ辻から京阪宇治線を渡って西に進むとその社叢が見えてくる。道路はさらに西の隠元橋へつづく。隠元禅師が上陸した岡屋ノ津はこの辺りであろう。岡屋小学校の前から二子塚古墳(五ヶ庄)に行って休憩した。奥へ進むと石室の遺構説明板がある。 濠が残る前方後円墳(6世紀前半)は長さが110メートルあり、宇治市では最大の規模だという。東側には専用の踏切を渡る西方寺の境内が広がる。その北側に弥陀次郎川が流れ、木幡に入って能化院と願行寺の前を北に進むと許波多神社(木幡)の鳥居前に出る。境内には「宇治市名木百選」のクスノキとヤブツバキが立つ。 奈良線との間に散策路が設けられているが、このスペースは旧陸軍の宇治火薬製造所木幡分工場へ通じていた引込線の跡である。街道の上には今も橋が架かっていて「陸軍用地」の標石も残る。西に向かう築堤はやがて道路に代わるが、戦中に使われた線路は桃山南小学校付近まで延びていた。立体交差する京阪宇治線の下を通る道は桁下が1.2メートルしかなく、腰をかがめて通るのも困難だ。 六地蔵に入ると「長阪地蔵(長坂地蔵)」の道標が目立つ。もともと、地蔵尊は長坂峠にあって、多くの参詣者で賑わったらしい。木幡と炭山をつなぐ峠は、観音巡礼の「女人道」としてよく利用されていた。明治時代に入って山麓の正覚寺に移されたという。高札場跡の札ノ辻から山科川を渡って六地蔵交差点へ来ると、六地蔵巡りで知られる大善寺の境内が北西側を占める。街道は八科峠を越えて伏見街道へ向かうものの、今回はここまでとした。 この数年「京都再発見」で街道歩きをしているが、思わぬ風景や見どころが散らばっていてなかなか興味深い(2024.1.16)。 |