会津の人々にとって、磐梯山は象徴的な山である。約5万年前と1888(明治21)年に噴火を起こし、大規模な山体崩壊・岩雪崩・流れ山地形が発生した。明治時代の噴火では477名の命を奪ったとされる。裏磐梯の湖沼群(堰止湖)はそのエネルギーが実感できる景勝地なので、高原を行動の拠点とする。 コースは猪苗代登山口から入山し、赤埴(あかはに)山・沼ノ平を経て弘法清水へ。山頂を往復したのち、中ノ湯跡から八方台登山口へ下ることにした。以前に訪れた猫魔(ねこま)ヶ岳や雄国(おぐに)沼にも寄りたかったが、行程をセーブして6時間ほどにする。 猪苗代スキー場のゲレンデをモノレールに沿って登ると、天の庭から山道になった。上部はガスに覆われ、沼ノ平付近の池塘や湿地帯はまったく姿を見せない。三合目の天狗岩付近では北面の爆裂火口が切れ落ち、その凄まじさを感じることができた。山体崩壊を起こした小磐梯(山)は標高が1,706〜1,790mと推定され、複数のピークが並んでいたと思われる。国土地理院をはじめ検証する論文がいくつもネットで公開されている。 四合目の弘法清水で喉を潤し、急坂を一気に登る。頂上の標高は1,816.2m。以前は1,818.6mだった。磐梯明神が祀られるのは五合目。燈明を灯して火が消えるまでが一合なので、富士山の半分で登れるといわれるが、階層(合目)を明確に示す資料は存在するのだろうか。俗説は数多くあり、他所では二十合を山頂とする恵那山の例もある。 八方台登山口への斜面に入るとブナが目立つようになった。途中の2ヶ所で北側が開け、桧原湖の湖面を望むことができる。吾妻連峰はガスに隠れている。明治の噴火以前には上ノ湯・中ノ湯・下ノ湯があったようで、噴火によって中ノ湯以外は壊滅し、中ノ湯も数人だけが助かったらしい(1990年代まで営業した廃屋が残る)。若いブナ林の中を降って磐梯山ゴールドラインの道路に出た。各所で見た花はすっかり秋の様相だった。 入山前日は時間があったので、会津初代藩主の保科正之(ほしな まさゆき)が眠る墳墓と土津(はにつ)神社を訪ねる。緑に包まれた参道の石畳(L=435m)は静かで、神社の五葉松や亀石に乗る石碑(「土津霊神碑」)も見事だった(2023.9.21)。 |