7月の『京都一周トレイル』の講座で清滝川に沿って歩いたとき、渡猿(とえん)橋の東側に立つ駒札で与謝野晶子の碑文(ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清瀧 夜の明けやすき)が初めは右岸の岩にあったことを知った。何度も訪れているのに、現在の左岸の歌碑を知っていたがための盲点だった。そこには、昭和33(1958)年につくられて修復が重ねられた経緯も記されている。駒札が設置された地点から川を見下ろせば、右岸の岩が眼下にあるものの今では文字を確認することはできない。左岸の川縁にも降りてみたが、大水によるものか四角い副碑も見当たらない。検索でわかった古い写真とは様子が異なっていた。副碑は「往年知を得たる頃のことを思ひ 與謝野晶子夫人の歌をしるす 昭和三十三年四月 洛東歌客 吉井 勇」。 下流側すぐに松尾芭蕉の句碑(清滝や 波に散り込む 青松葉)が立ち、副碑には「元禄七年十月 芭蕉翁辞世の句の後 澄時の心境に生れた 最後の絶喝を刻む 永遠に清瀧の景勝を見守り給へ 昭和四十七年初月 高桑義生」とある。落合にある句碑も同じ内容で、旧山陰本線「保津峡」駅(現「トロッコ保津峡」駅)から鵜飼橋を渡った道路に案内道標が立つ。 金鈴(きんれい)橋の袂には「清瀧や 神乃雪解ぞ 京の水」の句碑もあり、作者の桂陰(小林吉明)は嵯峨村長や嵯峨銀行頭取・苟川水力電氣會社監査役などを務めた地元の名士。あちこちに文学的な空気が漂う。ついでに、清瀧川水力電氣の清滝発電所も訪れた。明治43(1909)年から運用を始め、嵐山電車軌道・京都電燈を経て関西電力に引き継がれる。敷地から清滝川本流に水が排出され、現役の発電所として稼働している。その上流側に、かつて「苟遊園地」があったが、立ち入りが規制されており、川縁から想像するほかなかった。 清滝は学生(三高・同志社)との関わりも深く、昭和初期の最盛期には何軒もの旅館・茶店が営業していた。「清遊」と称して頻繁に通い、なかでも「ますや」は多くの物語やエピソードの舞台となっている。建物の一部は現存するが、「かぎや」も含めかつての様子を語り継ぐ人は少なくなった。2010年に周辺の大半が海外投資家の所有になったらしく、景観を含め今後どのようになるかは不透明である。 愛宕神社の麓に立地する清滝は、古くは参詣道の門前町・宿場町として誕生した〔元の地名は青竜権現に因む青瀧。橋名(青竜橋=清滝橋)で経緯がわかる〕。愛宕山鉄道・ケーブルが開業(昭和4=1929年)してからは観光地・避暑地として発展し、清滝川・嵐峡下りも行なわれるようになった。私も、子供の頃に落合から嵐山まで川下りの舟に乗ったことがある。戦中に撤去された鉄路は復旧することなく、人々の意識からすっかり忘れ去られたまま現在に至る。単線の清滝トンネルはそのまま道路として利用され、片側交互通行になっている。 戦前の観光地時代に描かれた案内図に、「嵐山嵯峨御室清瀧愛宕嵐峡下り」(国際日本文化研究センター所蔵)という吉田初三郎(よしだ はつさぶろう)の工房(?)による鳥瞰図(グラビア印刷)がある。金鈴峡の右岸支流には「河鹿瀧」「青葉瀧」が記され、苟遊園地に「萵e」もある。これまで知らなかった名称だけに、興味をそそられる。また「双子岩」が左岸にあって、「金鈴峡奇勝ノ一」と表現(裏面)している。最大の落差だった「石のどんどん」も特定したい。 集落が賑わった時代には、「あたごさん」の表参道を登った平坦地に嵯峨小学校清滝分教場があった。昭和40〜50年代には、15丁付近にフィールドアスレチックの施設が営まれたこともある。そして、清滝バス停に設置された案内板に、与謝野鉄幹の歌碑が描かれていた。次々と宿題が出てきたので、今後も探索が必要だとあらためて感じる(2023.8.21)。 |