田邊朔郎(たなべ さくろう)は、京都市民にとって忘れてはならない恩人だ。東京遷都に伴って、沈滞していた京都の社会・経済を近代化して発展させた立役者のひとりである。工部大学校時代に設計した琵琶湖疏水を、卒業後に工事を担当・監督し実現させた。そこには、第3代京都府知事=北垣国道(きたがき くにみち)との出会いが大きくかかわっているが、土木技師と政治家の違いはあっても、明治という時代の息吹きを象徴するような人物である。 第一疏水の完成後に北垣国道の長女(靜子・しず)と結婚。帝国大学工科大学(工部大学校から改称)の教授として東京で暮らしたが、第4代北海道庁長官になった岳父の要請で北海道の鉄道網計画を調査・敷設し、妻子も札幌で生活した。 この時の何よりの功績は、まだ地形図すらなかった日高山脈を調査して狩勝峠に鉄道路線を選定したことであろう。石狩と十勝を結ぶ交通は、高速道路・国道を含め現在でもその付近をルートにしている。的確な判断は100年以上経っても揺るぎない。峠名の命名者でもある。 狩勝トンネルから十勝平野へ、初めて峠を越えたときの光景は忘れられない。大きな曲線を左に右に描きながら新得(しんとく)へ下る根室本線の車窓は、どこまでも牧場がつづく日本離れした雄大な風景だった。『北海道浪漫鉄道』(田村喜子=著 新潮社 1986年)を読みながら当時の印象を思い返している。 宍道(しんじ)湖にある唯一の島=嫁(よめが)島に立つ華表(かひょう=鳥居)は田邊朔郎が寄進したもの。それを契機に、景観や歴史・文学・治水などをまとめて『華表美談 宍道湖嫁島』(昭和2年 乃木灘戸主會)として刊行された。その稀覯本の復刻と解説を付したものが下の書籍で、松江在住の知人から贈呈を受けて初めて知った。 |