橋本から高野山へ向かう「黒河(くろこ)道」の西側に位置する国城(くにぎ)山は、山上に国城神社が祀られる眺望のよい山だ。中腹から山麓はどこも果樹栽培が盛んで、開かれた景観も特徴のひとつである。入門者向の山登りで、高野山の参詣道を利用しながら「紀伊清水」駅から「学文路(かむろ)」駅まで歩いた。 賢堂(かしこど)にある定福寺から入山する。ここの層塔は鎌倉時代のもので、欠落があるものの歴史的に貴重なものらしい。古道の分岐には自然石の道標が立っていた。標高が上がると五軒畑岩掛観音に出る。眼下には紀ノ川を前に金剛・和泉山脈が横たわっていた。サクラソウが一面に咲く民家の横を通ってさらに上へ登ると鉢伏の弘法井戸がある。日照りがつづいているので湧水はほとんどない。道路に出てしばらく進むと明神ヶ田和(たわ)に着いた。「タワ」は「タオ」とも称し峠(垰)のことである。中国・四国地方に多い地名だ。 参詣道は一平(いちたいら)や黒河集落跡を経て黒河峠に至るが、今日はここから国城山の山頂に向かう。あまり歩かれていない尾根で頂上に達したあと国城神社の境内へ降りる。 国主を祀り「国城五社大明神」が社名である。一帯はサクラの木が多く、花を愛でながら昼食の休憩とした。花見の人やグループがほかにもあった。石段を降って三平稲荷大明神の境内から西畑の集落へ下山する。 果樹が植えられた斜面からは、再び紀ノ川流域の景色が広がる。スミレ・ヤマエンゴサク・ムラサキケマンなどが咲く山腹の道を、薬師寺に寄ってから学文路へ。かつては香室と表したらしい。 八十八所の石仏が祀られた小さな御堂を拝しながら、西光寺苅萱(かるかや)堂に立ち寄る。修行僧となった苅萱道心(どうしん)と石童丸(いしどうまる=息子)の物語と「人魚のミイラ」で知られる。前の道は高野街道(京・大坂道)で、江戸時代は宿場として大いに賑わったという。玉屋の屋敷跡がわずかに往時の様子を伝えるだけである(2023.4.3)。 |