以前から気になる地形が上の地形図にある。左は明治時代の20,000分の1。右は現在の25,000分の1地形図である。比較すると、赤い円内の中心部(小さい円)にある等高線がまったく異なる。よく見れば、尾根と谷の繋がり方が違うことに気づくはずだ。大正・昭和時代の50,000分の1地形図までは、左図と同様の表記がつづく。 もちろん、測量精度が低くて左図は間違っていたのかもしれない。だが、個人的な興味からすると「河川争奪」で地形が変化したのではないかと想像を逞しくしている。あるいは、蜜谷(みつたん)源頭から切り出す白川石の運搬を容易にするため、土砂を盛ってあえて流水を清沢口でなく蜜谷に流したケースも考えられよう。いずれにせよ、水色の集水域と黄緑色の集水域は大幅に変わり、水量の多寡にも大いに影響する。源流の風化した花崗岩は「白川砂」として知られる真砂土である。下流に押し流されて堆積すると、河床はますます高くなる。 赤い円の中心に『京都一周トレイル』東山コースの標識58があって、ここで上流・下流ともに道は急角度で曲がる。屈曲点の両谷の標高差は1〜2メートル前後。少し上流では数十センチしかないところもある。側に現在は用をなさない給水管と貯水槽があり、蜜谷に沿って下流へ水を流した痕跡が残る。これは、私が子どもの頃にあった白糸山荘の取水設備だったのではないかと推察する。谷のあちこちにその土管などが残され、白糸ノ滝の右岸上部まで送水していたと思われる。 江戸時代の『山州名跡志』(正徳1=1711年)・『都名所圖会』(安永9=1780年)には、この辺りに「白川の滝」(「北白川ノ滝」)があったものの、白川石を切り出したために滝は消失したと記している。それ以前には、鳴滝の「西滝(にしのたき)」に対する「東滝(ひがしのたき)」や「東鳴滝(ひがしのなるたき)」として歌枕になるほど知られていた(重石=かさねいし=の鳴滝を示すという説もある)。 白糸ノ滝は白糸山荘によって維持されていたものの、その規模や形状から「白川の滝」とはまったく別物である。だが、岩場を三段に流れ落ちる自然の滝は、かろうじて往時の様子を彷彿とさせる景観だ。カエデ・モミジ類に包まれる場景は、現代の「白川の滝」といってもよいだろう。地蔵谷の石切丁場へ向かう石切道を登ると滝を見ることができる(2023.1.6/2023.3.18訂正)。 |