5月に引きつづき大峰山脈南部の縦走を行なう。役小角(役行者)によって開かれた修験道の山々だけに、行場(霊場)である靡(なびき)が点在し、その確認も目的にした。もっとも、特定できない場所がいくつかあって、現在も研究・調査がつづけられている。また、時代の変遷もある。1300年以上の歴史をもつだけに、仏教とかかわる山名・地名が各所に残る。今回は、第三十三靡の二ツ石から第十一靡の如意珠(にょいじゅ)岳まで歩く予定だ。 前日は前鬼(ぜんき)の小仲坊(おなかぼう)で一泊し、明るくなると同時に出発した。中腹から上は紅葉・黄葉が進み、落葉のせいで千手岳(第三十四靡)が大日谷を挟んで望める。太古(たいこの)辻から「南奥駈道」に入るが、前線の影響か霧雨に包まれる。風も強く、雨具をつけての行動を余儀なくされた。 蘇莫(そばく)岳(第三十二靡)と石楠花岳を越えると天狗山(三等三角点)に至る。次のピークは奥守岳(第二十七靡)で、その間の靡(第二十八から第三十一まで)は前鬼(第二十九靡)を中心とした池郷川・前鬼川流域にあるようだ。降った峠が嫁越(よめこし)峠で、花瀬(十津川村)と前鬼(下北山村)を結んでいる。 第二十六靡の子守岳(地蔵岳)から小さな岩峰の般若岳(第二十五靡)を経て滝川辻に向かう。100メートル以上を降るとヒクタワの鞍部で、「乾光門」(第二十三靡)の標識が立っていた。ここには、剣光童子石が祀られていたため、証誠無漏(しょうじょうむろ)岳の乾光門と間違ったのではないかと思われる(森澤義信氏による)。 この先は、1300メートルを超える涅槃(ねはん)岳(第二十四靡=三等三角点)を最高峰に、1200メートル〜1000メートルの山なみに変わる。平均標高は下がるものの、アップダウンの激しい地形がつづく。阿須迦利(あすかり)岳で昼の休憩をとり、持経(じきょうの)宿(第二十二靡)に降れば不動堂と山小屋が建っていた。 林道が越える鞍部から緩い尾根道を進むと持経千年檜が目に入る。その先にはミズナラの巨樹もあり、モミ・ツガ・ブナなどが林立してすばらしい。平治(へいじの)宿(第二十一靡)にも山小屋がある。入口の前には西行の歌碑が立ち、ここに泊まって詠んだものだろう。転法輪(てんぽうりん=二等三角点)岳と倶利伽羅(くりから)岳を登り降りして進むと、130メートルほどの登り返しで怒田(ぬたの)宿(第二十靡)を経て行仙岳(第十九靡=三等三角点)に達した。 南側へ下った佐田ノ辻には、浦向(下北山村)と上葛川(十津川村)を結ぶ笠捨(かさすて)越の道が通る。奥駈けの拠点となる山小屋があり、近くには「から池」と呼ばれる凹地がつづく。送電線が通る鉄塔の先で、明治時代に使われた逓送道が右手に分かれる。西面の山腹を上葛川(かみくずかわ)へつづくもので、以前に歩いたことがある。第十八靡の笠捨山(二等三角点)は仙ヶ岳とも呼ばれる大きな台形の山だ。山頂からは、青空を背景に紀伊山地の山なみが重畳と広がっていた。 地蔵森(地蔵岳)はこの山行で一番の難所である。まず、尖った槍ヶ岳(第十七靡)に取り付く。頂上近くはそそり立つ岩を縫って進む。地蔵岳のピークへ登り返すと、ヤセ尾根から見事な展望が広がっていた。なかでも、中八人山を中心とする支稜の山塊が大きい。2ヶ所ある鎖場を慎重に降りる。ここは行場であるとともに、十津川の人々にとってダケ信仰(雨乞い)の参道でもある。第十六靡の四阿(あずまやの)宿で穏やかな地形に戻る。山頂は東屋岳と呼ばれる。 香精(こうしょう)山(第十三靡=三等三角点)までの間に菊ヶ池(第十五靡)と拝返し(おがみがえし=第十四靡)があり、近くの檜之宿を第十七靡とする寺院もある。主稜上の鞍部は金剛童子塔之谷(峠=貝吹金剛)と称し、上葛川への道が分岐する。手前の大岩から法螺貝を吹くと、村人が山伏らの食事の用意を始めたと伝わる。 徐々に植林地が広がり、古屋(ふるやの)宿(第十二靡)・如意珠岳から蜘蛛ノ口を経て「玉置山登山口」バス停に出た。山中では花の時期は終わっていたが、里に近いところでは秋の草花がまだ少し咲いていた(2022.10.23〜10.24)。 |