探山訪谷[Tanzan Report] |
No.790【廃村の研究】 |
『廃村の研究 山地集落消滅の機構と要因』(坂口慶治 海青社 2022年) |
大原(京都市左京区)の尾越(おごせ)・大見(おおみ)地区を見るまでもなく、山間の集落が消滅し廃村となる例は、私たちにも身近な社会現象である。若い頃は両集落とも存続していた。 極端な言い方をすれば、東京への一極集中(過密)と一連の動きで離村(最終的には挙家離村)は進む。典型的な中国山地だけでなく、西日本に多い廃村は戦後の高度成長期に著しく進行した。もちろん、それ以前にも様々な原因による離村の流れはあったので、その時代の社会・経済との関係が大きい。 この論考集は、丹後半島の山地に散らばっていた集落の消滅にいたる要因と過程を、フィールドワークをもとに個々の具体例で説明しながら言及し、法律や行政による町村単位の一元的な対策や一律的な支援が、廃村への道筋をより強めることになったと結論づけている。 山間集落の廃村は現在も進行中だ。そこには、立地環境や生業、社会・経済的な構造をはじめ、集落の特性が大きく関わる。たとえば、共有財産の管理・運営がどうなされているかで集落の社会制度が明らかになる。戦後の農地改革は各戸(家)の関係を大きく変えたものの、山林は従前のままなので、林野所有面積の序列が社会的序列につながっているケースも多いようだ。 集落の規模と家々の関係が、前近代的な価値観に支配されているか合理的かもおおいに関係する。なかでも、名主と名子(なご)、氏姓の階層(同族外と同族内)は、小さな集落ではとくに大きな要素となる。 戦後の離村の理由では、子供の通学(中学)や進学(高校)問題がまず目に見える形で現れた。しかし、背景は地域社会における社会構造の変化があり、住民の生活(階層)格差が、最終的に集落の維持か離村かの分岐点になったらしい。個々に移転先を見つけられるか、あるいは先の移住者を頼って離村するか。もしくは、集団で新たな場所へ移動するかなど、その形態は集落ごとに特殊である。 これまで、「過疎」「廃村」といえば全国的に同様の現象だと思っていた事柄が、実は詳しく掘り下げないと解らないということを教えられた。国や地方自治体による、社会インフラの整備だけでは解決できない問題だ。 誌面では丹波(旧和知町)と鈴鹿(旧脇ヶ畑村)の事例も取り上げている。その山域に通ってきた者として、知らなかった事情や推移とその現況に驚かされる。 山奥の一軒家がテレビ番組になる昨今。そこで暮らす人々の意識や暮らしぶりを通して、山間集落に備わる価値感や生活スタイルに共感が集まり深まることを期待したい。本書は、山中の暮らしを検証し未来へつなげる資料として貴重である。 |
→「探山訪谷」へ戻る|→ホーム(トップ)へ戻る |