弥山から釈迦ヶ岳の間は、大峰山脈のなかでも標高1800メートル以上の山々が集中する山稜である。近畿地方最高峰の八経ヶ岳(仏経ヶ岳・八剣山)をはじめ、大峯山で2番目の標高を誇る仏生(ぶっしょう)ヶ嶽や360度の大パノラマが得られる釈迦ヶ岳など、魅力が詰まったエリアだ。なかでも、奥駈道の行場や見どころという点で、孔雀岳と釈迦ヶ岳の間はとくに注目していた。 弥山にある「八剣山・前鬼」の標石から南下すると、オオヤマレンゲを保護する区域に第五十二靡(なびき)の古今(ふるいまの)宿(しゅく)があった。八経ヶ岳では、これからたどる大峰山脈の主稜が行く手に延び、北側には遠く金剛山や生駒の山なみも姿を現している。 明星ヶ岳のピークは奥駈道から少しはずれてある。舟ノ多和(垰)までの間に、菊ノ窟・禅師(ぜんじ)ノ森・五鈷嶺(ごこのみね)の靡を数えるが、場所は明確でない。七面山は東峰に岩壁(煤jがあるのでよく目立つ。 楊子(ようじの)宿を過ぎると標高差200メートル以上の登りになる。仏生ヶ嶽と孔雀岳はなだらかな稜線のピークだが、道は西面をトラバースして通過する。修行にとって、必ずしも山頂がかかわるものでないことを教えてくれた。 孔雀覗を過ぎると椽(えん)ノ鼻が近づく。五百羅漢(十六羅漢)・鐺(こじり)返し・両部分け(螺摺り=かいすり)・鉄鉢岩(弥勒岩)・空鉢(くうはち)岳などが次々と現れ、岩稜の登り降りがつづく。鎖場もある。ふと見上げると、オオミネコザクラが岩場のあちこちに咲いていた。 釈迦ヶ岳は人気の山で、十津川村側(旭の太尾登山口)から次々と人が登ってくる。子供づれも多い。大正13(1924)年に前鬼から担ぎ上げられた釈迦如来立像が頂上に立つ。強力(ごうりき)の岡田雅行(おかだまさゆき)氏によって設置され、その怪力から地元では「オニ雅」と呼ばれていた。 千丈平への道を分け、ミツバツツジの咲く斜面を降ると都津門(とつもん=「極楽の東門)が現れた。岩場に開いた穴から背後の緑が覗く。どうも、人の手によって行場造りがなされたらしい。鞍部の平坦地に深仙(じんぜんの)宿・灌頂堂が建ち、四天石の近くに髭塚の石碑が立つ。香精水は「万病治癒の霊水」とされ、参詣者が持ち帰ったようだ。周辺には他にも隠れた行場があって、奥駈けでは何日も逗留する重要地点である。かつては、人の背によって前鬼から物資が運ばれていた。聖天ノ森と露岩の集まりとされる五角仙(ごかくせん)は大日岳側の靡である。 宝冠嶽とも呼ばれる大日岳は行場を登る。振り返れば釈迦ヶ岳南面の岩場が一望だ。頂上の大日如来像は同じ強力によって運び上げられたもの。大日岳東側の支稜にある1357m峰は第三十四靡の千手岳で、頂上直下に千手観音像が安置されているという。 太古(たいこの)辻は前鬼(ぜんき)に下る道が分岐する要所で、稜線には「これより大峯南奥駈道」の大きな標識が立ち、傍に第三十三靡の二ツ石が並ぶ。階段を降ると大日谷に近づき、山腹をトラバースした先の尾根に両童子石(いわ)が突然現れる。谷筋に入ると傾斜は徐々に緩くなり、開けた空間にトチノキの巨樹が点在する。周囲は美しい広葉樹林が広がっていた。 注連縄の張られた神社から石段になり、石積みに囲まれた平坦地がつづくと前鬼の行者堂に降り立った。暗(くらがり)峠の鬼〔前鬼=義賢(ぎけん)、後鬼(ごき)=義覚(ぎかく)〕が役行者の従者となって、修験者のために住み着いたのが発端とされる。古くは小仲(おなか)坊(五鬼助=ごきじょ=義達)・行者坊(五鬼熊=ごきくま=真義)・森本坊(五鬼継=ごきつぐ=義継)・中之坊(五鬼上=ごきじょう=義上)・不動坊(五鬼童=ごきどう=義元)という五つの宿坊があった。私の若い頃は森本坊もあったが、現在でも営まれるのは小仲坊だけである。 61代当主の五鬼助義之さんによれば、屋敷の下の石垣は田畑の跡だという。多い時には7軒30人以上が生活していたとのこと。前鬼川上流の標高750〜800メートルの開けた緩斜面に、修験道の隆盛を偲ばせる風景が広がる。道路ができる1960年代まで、ここの生活を支えたのは牛抱(うしだき)坂の険しい峠道だった。耕作用に仔牛を抱えて登ったことが地名の由来で、十津川村との往来には嫁越(よめこし)峠が使われた。修験そのもののような集落の歴史である(2022.5.4)。 |