探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.585【ホハレ峠】
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『ホハレ峠――ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』(大西暢夫 彩流社 2020年)
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 ホハレ峠――なつかしい名前だ。1973年から1980年代前半にかけて、盛んに出かけた「奥美濃」にある峠のひとつ。揖斐川源流(西谷)の山住みの人々が、他の地域や社会とつながる峠道であった。
 旧徳山村(現岐阜県揖斐川町)門入(かどにゅう)に最後まで住みつづけた廣瀬ゆきえさんの生涯を、聞き書きと取材を元に綴る大西暢夫氏の著書。カバーの書名を見て、思わず手にとって読み始めた。
 この峠に実際に立ったのは一度きりで、積雪期に蕎麦粒山からトガス(神ヶ岳)を経て川上(旧岐阜県坂内村・現揖斐川町)へ下ったときしかない。当時は既に周辺の大半が伐採され、旧道でなく新たに敷設された林道が峠を越えていた。
 それまでは村人が繭を背負って川上に向かい、再び鳥越峠を越えて草野川流域の高山(現滋賀県長浜市)まで運んだ。峠道には、「コウジヤスマ」「一里ヤスマ」と呼ぶ何人もが休める場所と峠に地蔵尊が祀られていた(『徳山村史』)。また、八草峠を越えれば杉野川に沿って木之本(現滋賀県長浜市)へも行ける。14歳で歩いて鳥越峠に立ったゆきえさんは、初めて「海」(琵琶湖)を見たという。その後、出稼ぎや結婚で滋賀・愛知・北海道・長野……と住まいを変える。
 門入では家を絶やさない仕組みがあって、ほとんどが親戚という集落を維持するきずなが連綿とつづいてきた(他の山村でもよく見受けられる)。そんな社会に、戦後の大きなパルプ需要を背景として製紙会社が広大な共有林に目をつける。結果として、最奥部の国有林と集落背後の留山を除く樹林を10年余りで伐り尽くした。
 復興期の水や電力を賄うため、国は全国にダムの建設計画を進めていた。これをいち早く察知した資本が、その前に木材をすべて運び出したのである。この山域に関心を持つようになった時期は、その最後に少しかかる頃であった。樽見(旧岐阜県根尾村・現本巣市)から本郷(旧徳山村)に越える馬坂峠では、運搬する大型トラックとよく出合った。
 いつもお世話になった門入から約8キロ下流の戸入(とにゅう)でも、ダムに対する人々の考え・意見は分かれ、重苦しい空気を感じる場面が何度もあった。その頃、自然・人文にかかわる多彩なテーマで年一回の「ミニ学会」(徳山村の自然と歴史と文化を語る集い)が開かれ、特徴ある山村=徳山村の調査・記録・研究が進み書籍も刊行されている。
 「現金化したら、何もかもおしまいやな」と語る廣瀬ゆきえさん。地域が崩壊していく長い年月を読み進むと、生活の豊かさや私たちの今の生き方が深く問われているように思える。その社会構造は現在もなんら変わっていない。
 せめてもの救いは、福井県境までの広大な面積が人の手を加えることなく自然のまま保全されようとしている点だ。劇的な環境変化でもない限り、将来は国内有数の広葉樹林が形成されるだろう。惜しむらくは、その文化が廃れてしまったことである。
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