探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.442【清阪峠】
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東別院町倉谷
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清阪峠の国境標石
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旧道で峠へ
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左=旧峠に残る文化三年の墓標(左 あなを/右 そうじ寺)  右=青面大金剛(庚申さん)
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左=清阪の道標(文化二年「右 あなう/左 そうじ寺」)  右=移動した道標(安政四年「左 そうじ寺道/右 阿なを寺道」)
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 西国三十三所観音巡礼の、第二十一番穴太寺から第二十二番総持寺の間(六里)は峠越えが連続する。亀岡と茨木に跨がる清阪峠は明治時代に開通した道路(府道43号)だが、巡礼者たちは旧道を使って峠を越えていた。栢原(亀岡市東別院町)の垂氷(たるひ)橋付近から山手に取付き、いったん田畑と家屋のある傾斜の緩い谷に降りたのち、尾根筋を西へ向かったと思われる。現在の峠の西側に、よく踏み込まれた道がつづいていた。一色刷の古い五万図をみると、清坂街道として車道とともに旧道が描かれている。また、亀岡側に東清坂の地名も記される。9月の台風によるものか、鞍部の北面が倒木帯になっていた。
 南へ下りると数分で清阪(茨木市)の集落に入り、旧道に沿って道標が残存する。どれも、巡礼の盛んだった江戸時代後期のものである。ただ、安政四年の標石は示す方向が逆を向いており、元の位置から移動したと思われる。
 再び道路に出て、清阪街道を下音羽川に沿って忍頂寺まで歩いた。竜王山麓に建つ寺院も被害を受けており、各所でその爪痕を確認する一日になった(2018.10.16)。
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大阪方面の眺望(忍頂寺付近から)
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