探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.37【予土国境の山――篠山・妹背山】
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 篠山山頂に立つ国界標石。背後の枯れ色はアケボノツツジの群落と林床にミヤコザサ
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 篠山から四万十川流域の山なみを望む
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 大堂海岸(大月町)から見た沖ノ島(手前右は柏島)
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 左=海上より妹背山(403.8m)の山稜を望む  右=母島港に着いた定期船「おきのしま」(82t)
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 左=母島の集落は石積みと階段が続く(石垣から突き出ているのは、天日干しをする「干棚」)  右=日吉神社(シーサーを思わせる獅子と狛犬)
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 左=ノコンギク  右=ツワブキ
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 左=ムサシアブミ(イノシシが掘ったのか、葉はどれも倒れている)  右=山伏神社のスダジイ(付近には開拓地の廃屋と石積みが残る)
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 左=妹背山(北峰・大峰)山頂より弘瀬方面を見下ろす(広場の一角に旧海軍の砲台が現存)  右=仏ヶ丘(遠洋漁業の安全を祈る地蔵石仏)
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 左=沖ノ島で最初に定住したと伝えられる三浦家一族の墓  右=「ご先祖さま」へお参りする石段の道を下る
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 左=傾斜地に立ち並ぶ弘瀬の家屋  右=ハイビスカス(海岸沿いには背丈が4mを超すダンチクが密生し、ハマカンゾウの花も咲いていた)
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 左=船上から望む弘瀬の集落
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 四国の南西部、伊予宇和島藩と土佐藩は江戸時代初期から境界を巡る国争いを続けてきた。「篠山の山争い」や島を二分する統治(沖ノ島)、鵜来島(うぐるじま)・姫島の領有権にかかわる問題がよく知られ、現在の愛媛県と高知県に落ち着くのは明治6年になってからである。
 篠山の山頂(1064.6m)にはその歴史を物語るように、北面「北 土佐國 境」、南面「南 伊豫國 境」、東面「高知縣權令 岩崎長武 愛媛縣權參□ 大久保親彦 立合建之」、西面「紀元二千五百三十三年明治六年十月」という標石が立てられている(一部現行漢字で表記)。このとき、山上にある篠山神社は愛媛県の管轄となり、宿毛湾の入口に浮かぶ沖ノ島は高知県に属することとなった(明治7年)。
 宿毛市片島港から一日2便の市営定期船で渡る沖ノ島は、元来土佐の領地だったが、戦国時代は伊予の御庄氏が島の北西部(母島・久保浦)と鵜来島を支配していたという。万治2年(1659)の幕府による裁決は、両藩の入会権は認めながらも、土佐藩に有利な境界となった。南部に位置する弘瀬では、その後も野中兼山(1615〜1663)らが「弘瀬浦掟」をつくって他所への婚姻を禁止していたらしい。
 沖ノ島(妹背島・興之島)は、『今昔物語』に「土佐の国の南の沖に妹背の島とてありとぞ人語れり」とあり、姉と弟(兄と妹)が島にたどりついたという物語が記されている。亜熱帯性の植物や照葉樹林が島全体を覆っているが、母島(もしま=茂島・藻島)と弘瀬を眺めると、集落の雰囲気に違いが感じられる。石垣の石も異なっていた。
 なお、今回訪れることはできなかったものの、松尾峠(愛媛県南宇和郡一本松町小山・高知県宿毛市大深浦)には、貞亨4年(1687)の国境標石が現存する。〈2009.10〉
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