四国の南西部、伊予宇和島藩と土佐藩は江戸時代初期から境界を巡る国争いを続けてきた。「篠山の山争い」や島を二分する統治(沖ノ島)、鵜来島(うぐるじま)・姫島の領有権にかかわる問題がよく知られ、現在の愛媛県と高知県に落ち着くのは明治6年になってからである。 篠山の山頂(1064.6m)にはその歴史を物語るように、北面「北 土佐國 境」、南面「南 伊豫國 境」、東面「高知縣權令 岩崎長武 愛媛縣權參□ 大久保親彦 立合建之」、西面「紀元二千五百三十三年明治六年十月」という標石が立てられている(一部現行漢字で表記)。このとき、山上にある篠山神社は愛媛県の管轄となり、宿毛湾の入口に浮かぶ沖ノ島は高知県に属することとなった(明治7年)。 宿毛市片島港から一日2便の市営定期船で渡る沖ノ島は、元来土佐の領地だったが、戦国時代は伊予の御庄氏が島の北西部(母島・久保浦)と鵜来島を支配していたという。万治2年(1659)の幕府による裁決は、両藩の入会権は認めながらも、土佐藩に有利な境界となった。南部に位置する弘瀬では、その後も野中兼山(1615〜1663)らが「弘瀬浦掟」をつくって他所への婚姻を禁止していたらしい。 沖ノ島(妹背島・興之島)は、『今昔物語』に「土佐の国の南の沖に妹背の島とてありとぞ人語れり」とあり、姉と弟(兄と妹)が島にたどりついたという物語が記されている。亜熱帯性の植物や照葉樹林が島全体を覆っているが、母島(もしま=茂島・藻島)と弘瀬を眺めると、集落の雰囲気に違いが感じられる。石垣の石も異なっていた。 なお、今回訪れることはできなかったものの、松尾峠(愛媛県南宇和郡一本松町小山・高知県宿毛市大深浦)には、貞亨4年(1687)の国境標石が現存する。〈2009.10〉 |