亀岡盆地は、隣接する地域によって変化に富んだ風土を感じられる。もちろん丹波の特徴が目立つものの、攝津や山城との結びつきを色濃く漂わせるからだろう。法貴は摂丹街道に沿う集落だが、我々には地形図(25,000分の1)の図幅名で馴染み深い。そこには法貴姓の屋敷が並び、田畑の広がる彼方に三郎ヶ岳から愛宕山が望まれる美しい里であった。
おもしろいことに、江戸時代から明治の中頃まで所属が変遷し、攝津高槻藩・大阪府・京都府桑田郡(のち南桑田郡)となって、現在は亀岡市曽我部町になっている。
霊仙ヶ岳の周辺には中世の山城があり、能勢の妙見山との関わりも深い。なかでも明智戻り岩(屏風岩)は、見どころのひとつであろう。明智光秀が入丹に際し、この岩で待ち構えていた笑路(わろうじ)城主=長沢家綱(諸説ある)と相対し、光秀が和平を呼びかけて軍を返した(『丹波笑路城発掘調査報告』)と伝わる場所である。現地の説明板には、織田信長より秀吉の援軍を命ぜられ(天正十年・1582年)、中国へ向かう際にここで本能寺へその鉾先を変えたと記されていた。入口近くには、鉱山師とつながる國狭槌(くにさづち)神社が祀られており、古くは「八王子さん」と呼ばれていたらしい。 静かな山と谷と里を歩き回る一日になった(2017.4.18)。 |