延暦寺は比叡山中に一大堂舎群を形成し、そこから数多くの高僧を輩出してきた。一般に「比叡三千坊」といわれているが、鎌倉以降の仏教に大きな影響を与えた修行の場がどのように分布していたのか、現地を探索するうえで欠かせないのが絵図や古文書である。
信長の焼討ちにあったとはいえ、『叡山文庫』には歴史的資料が多数保存されている。しかし、延暦寺関係者や仏教研究者でない私たちのような者には閲覧が困難であり、知りたくても知り得ないもどかしさを感じていた。最近になって、滋賀県の県政史料室で「地理掛書類」(比叡山 近江山城 国界取調書 明治10年、上の写真はその表紙)を見る機会があった。これは、廃藩置県による府県境の画定をするために、それまでの経緯や地元との関係を調べまとめたものである。本来、明治政府へ提出された地図・書類であるが、どのようないきさつで県庁に保管されているのか明らかでない。
その中に、山城側まで含めた大きな絵図が折り込まれ、『近江輿地志略』(寒川辰清)などに記載されている「神蔵寺」も山や川の状況から位置がだいたい判明する(下の写真の黄色で括った部分)。これから「三千坊」を検証したいと考えている。 |