探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.188【丹生の鉱山跡】
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 左=鳥居をくぐって丹生神社へ向かう  右=丹生山へつづく参道の丁石
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 左=山城・明要寺跡の石積み  右=谷間に残る石積みと坑口(奥)
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 ズリに近づくと、北山川上流の谷筋でここだけが明るい
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 岩場に囲まれた「チョンチョン滝」(ズリの上部)
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 鉱山道には「国有道路」の標識が設置されていた
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 左=坑口のひとつ  右=幅員のある鉱山道が今も残る
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 六甲の北西側に連なる丹生・帝釈山系。神戸市北部の農村と新興住宅地が混在する地域にある。その山名から水銀とのかかわりに興味を抱き、このほど訪ねてみた。丹は赤土を意味する。丹生神社蔵の「紙本著色丹生山明要寺参詣曼陀羅」(室町時代)には、その採取の様子が描かれていた。
 『北神戸の山やま』(多田繁次 神戸新聞出版センター 1982年)によれば、多田源氏による帝釈鉱山があると記され、かつては長谷銅山と呼ばれていたらしい〔『山田郷土誌』(山田郷土史編纂委員会)、『神戸市史』(神戸市)など〕。銅のほか、金・銀・亜鉛・硫化鉄鉱を産出した。
 記録として現存するものは安永八(1779)年まで遡れ、多田銀山との結びつきがあったようだ。その後は採掘と休山を繰り返し、第二次世界大戦による資源増産で年間360トン(昭和18年)を産出したこともあった。戦後も採鉱されたが、昭和35(1960)年に休山し、昭和48(1973)年に鉱業権が放棄された。
 いちばん大きな坑口には立入禁止の柵と標識があり、周辺にも斜坑・竪坑が点在する。また、排水用と思われる石積みや各種設備のための平坦地も見られた。上記の書籍によれば、トロッコの軌条や碍子が残ると記されている。なにより特徴ある景観は、谷に張り出すズリのテラスだ。数十年前の歴史が草に埋もれるなか、ここだけは赤茶けた空間が開けていた。
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