霊仙山の西側に広がる山域は、登山者からは顧みられることのないエリアだ。最高峰の男鬼(おおり)山でも683mしかなく、大半は400m〜500m級の特徴のない山なみとしか認識されていない。ここに光を当てたのが西尾寿一(にしお ひさいち)氏で、山中の集落が存続していた時代に記録を残されている。人々の暮らしだけでなく、地名の採集や各集落の関係など『鈴鹿の山と谷1』(ナカニシヤ出版、1987年)には興味深い事柄が数多く記される。現在は無住の地域だけに貴重な文献である。 山中にあった集落は峠道でそれぞれ結ばれ、今も多くが見事な痕跡をとどめる。それらを流浪するように歩くのがこの山域の魅力だという。鈴鹿の滋賀県側は広大な雑木林があちこちにあり、点在する石灰岩や茅場が風景のアクセントになっている。今回は、多賀町の山女原(あけんばら)・落合から彦根市の男鬼・明幸(みょうこ=妙幸)・武奈を経て仏生寺(ぶっしょうじ)の集落を訪ね歩いた。もちろん、途中の男鬼山・向山にも立ち寄る。 山女原には人の姿も見られたが、上流域の廃屋は荒れるに任されるような状況がつづく。しかし、日本の原風景を彷彿とさせる山里の景観が突然現れて息を呑む。男鬼にある比婆大神の鳥居前から男鬼峠へ向かう車道を進む。次の分岐で武奈方面に向かうと、峠を越えて谷筋へ降りた。途中の平坦地に明幸の集落跡がある。 坊ヶタワへ越える峠には六体地蔵が残り、人々の営みが見えるようだ。道路の一段上につづく旧道は支尾根の峠まで延びている。当時の主要な産品は炭やゴボウで、彦根まで運ばれたらしい。北西面が開けると正面に向山が近く、天野川の狭隘部を挟んで伊吹山も大きい。男鬼山と向山の間には三つの峠があり、現在は林道が敷設されて分かりにくい。加えて、一帯にはドリーネがあってより複雑な地形がつづく。もっとも大きな凹地はダンダンクボと呼ばれる。 上掲書の「N峠(仮称)」から送電線鉄塔が建つ向山を往復。善谷(ぜんだに)町へ下る峠道を利用したかったものの途中で見失った。仕方なく仏生寺町へ下る支尾根を使う。473m標高点を中心にカレンフェルトの狭い岩尾根がつづく。男鬼峠へつながる林道に出て、やっと歩きづらさから解放された。仏生寺の旧集落に立つ畑久右ヱ門(軍人)の石碑を見て平野部へ降りる。初夏の花が多く見られるコースは、風光もまたすばらしかった(2025.5.8)。 |