探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.1038【大辺路を歩く(平見道)】
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串本の西海岸(串本海中公園入口から市街地方向)
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左=澤信坊(太地浦)の道標地蔵(右ハわかやま/左ハいそみち)  右=逢坂山の切通し
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左=徳本上人名号碑  右=有田村道路元標
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左=有田川  右=立江地蔵
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飛渡谷道の林
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飛渡谷道
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左=境界石(右ハ有田浦/左ハ田並浦 境)  右=池ノ谷の涅槃像と地蔵石仏
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左=田並の集落  右=野ナギの道標地蔵(右ハやまみち/左ハわか山みち)
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左=南海道地震の津波到達地点(江田)  右=徳大明神社
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左=徳本上人名号碑  右=江田海岸の歌碑
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富山平見道
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連続する石段(地下側)
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中平見の海辺
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左=田子川  右=電子基準点
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左=安指大師堂  右=新田平見
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新田平見道
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左=東平見大師堂  右=伝説「おおな魚」の説明板(東平見大師堂)
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左=石像(上品禅寺)  右=西地の旧道
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左=熊谷の石仏  右=「和深」駅
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和深の海岸
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 平見(ひらみ)は海岸に沿った小高い平地を表し、すさみ町から串本町にかけて連続している。この海岸段丘は日当たりがよく、畑が開かれて生活の場になってきた。ただ、あまり水には恵まれずサツマイモや麦が栽培された。
 岬に向けて尾根が張り出すので、海岸沿いの国道42号は切通しやトンネルで何度も尾根を越える。大辺路(おおへち)はさらに山側を通過する場合が多く、小さな峠越えがつづく。『熊野巡覧記』(江戸時代)では、小坂が48ヶ所〔鬮野川(くじのがわ)村〜和深浦〕と記載される。
 特徴的な景観を楽しみに、飛渡谷(とびやたに)道から富山(とみやま)平見道・新田(にった)平見道をつないで歩いてきた。串本町最古の道標地蔵(享保12=1727年)がある串本海中公園前から出発し、逢坂山を旧道で越える。降りた有田(ありだ)漁港(貝岡=かいおか)で「いせみち」の古い道標を探すものの、見つけることができずに徳本上人(とくほんしょうにん)の名号碑だけを確認した。伊勢を案内する大辺路の標石は他にないらしい。
 旧有田村の道路元標を見て、戎ノ祠を過ぎると飛渡谷道の入口である。照葉樹の林床にはオオタニワタリなどが茂っていた。海側の展望所にも立ち寄る。田並(たなみ)トンネルができる前の旧道と出合うカーブに、立江地蔵が岩壁に収まっていた。四国八十八ヶ所の第十九番霊場(立江寺)で、頭部に「西谷峠」と彫られている。有田・田並の境界石を見て向地(むこうじ)に降ると、集落の手前に涅槃像と地蔵尊が並ぶ。両地区はサンゴを焼いて漆喰粉を製造していたらしく、説明板には和歌山城の白壁や潮岬灯台に使われたとある。
 田並から江田にかけては国道を進むが、歩道や側道(旧国道)があるので歩きやすい。野ナギには道標地蔵が残っていた。地形図に記号が載るのは、「南海道地震による津波到達地点」(1946.12.21)の標識である。以前は石碑があったのかもしれない。集落のはずれに建つ徳大明神(とくだいみょうじん)社は大庄屋=浦氏によって造営されたという。
 国道は歩道がなくなり、車に注意して海辺を進む。大きく右にカーブする地点に徳本上人名号碑と「波がしら……」の歌碑(?)があった。判読できないが、どうも旧和深村村長の碑らしい。中平見が近づくと富山平見道に入る。紀勢本線を越えて標高50mぐらいまで登り坂がつづく。掘り込まれた道と石畳が歴史を語る。地下(じげ)側につづく石段はなかなかよい雰囲気だ。
 田子(たこ)川を渡り、駅前から海沿いを西に進む。名号碑と津波到達碑を認めて山側へ向かうと、安指(あざし)の高台に出た。集落の中央に電子基準点が光り、北側に大師堂が建っていた。国道へ降ると、前方は高速道路の大規模な工事現場。先日から通れるようになったばかりで、新田平見道へ階段とロープで誘導される。
 短い区間ながら石段のつづく道が残り、周囲の樹林に安らぎを覚えた。ほどなく新田平見から東平見へ入る。旅の僧(弘法大師)に食事を施したという「おおな魚」伝説の大師堂や、石垣に守られた家々を眺めながら和深(わぶか)川の畔まで降った。少し時間があるので、上品(じょうぼん)禅寺や西地(にしじ)の集落を周回する。
 旧道で熊谷(くまだに)の大日如来石柱(大辺路コースマップに記載)まで行ったが、ここも工事で騒々しく、祀られた石仏だけを確認してすぐに和深へ引き返す。海辺の縞模様の岩壁は「タービダイト」と呼ばれ、互層になった砂岩と泥岩は土石流の証だという。列車の時刻まで、波と雲を眺めて過ごした(2025.4.4)。
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左=モチツツジ  右=タツナミソウ
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