平見(ひらみ)は海岸に沿った小高い平地を表し、すさみ町から串本町にかけて連続している。この海岸段丘は日当たりがよく、畑が開かれて生活の場になってきた。ただ、あまり水には恵まれずサツマイモや麦が栽培された。 岬に向けて尾根が張り出すので、海岸沿いの国道42号は切通しやトンネルで何度も尾根を越える。大辺路(おおへち)はさらに山側を通過する場合が多く、小さな峠越えがつづく。『熊野巡覧記』(江戸時代)では、小坂が48ヶ所〔鬮野川(くじのがわ)村〜和深浦〕と記載される。 特徴的な景観を楽しみに、飛渡谷(とびやたに)道から富山(とみやま)平見道・新田(にった)平見道をつないで歩いてきた。串本町最古の道標地蔵(享保12=1727年)がある串本海中公園前から出発し、逢坂山を旧道で越える。降りた有田(ありだ)漁港(貝岡=かいおか)で「いせみち」の古い道標を探すものの、見つけることができずに徳本上人(とくほんしょうにん)の名号碑だけを確認した。伊勢を案内する大辺路の標石は他にないらしい。 旧有田村の道路元標を見て、戎ノ祠を過ぎると飛渡谷道の入口である。照葉樹の林床にはオオタニワタリなどが茂っていた。海側の展望所にも立ち寄る。田並(たなみ)トンネルができる前の旧道と出合うカーブに、立江地蔵が岩壁に収まっていた。四国八十八ヶ所の第十九番霊場(立江寺)で、頭部に「西谷峠」と彫られている。有田・田並の境界石を見て向地(むこうじ)に降ると、集落の手前に涅槃像と地蔵尊が並ぶ。両地区はサンゴを焼いて漆喰粉を製造していたらしく、説明板には和歌山城の白壁や潮岬灯台に使われたとある。 田並から江田にかけては国道を進むが、歩道や側道(旧国道)があるので歩きやすい。野ナギには道標地蔵が残っていた。地形図に記号が載るのは、「南海道地震による津波到達地点」(1946.12.21)の標識である。以前は石碑があったのかもしれない。集落のはずれに建つ徳大明神(とくだいみょうじん)社は大庄屋=浦氏によって造営されたという。 国道は歩道がなくなり、車に注意して海辺を進む。大きく右にカーブする地点に徳本上人名号碑と「波がしら……」の歌碑(?)があった。判読できないが、どうも旧和深村村長の碑らしい。中平見が近づくと富山平見道に入る。紀勢本線を越えて標高50mぐらいまで登り坂がつづく。掘り込まれた道と石畳が歴史を語る。地下(じげ)側につづく石段はなかなかよい雰囲気だ。 田子(たこ)川を渡り、駅前から海沿いを西に進む。名号碑と津波到達碑を認めて山側へ向かうと、安指(あざし)の高台に出た。集落の中央に電子基準点が光り、北側に大師堂が建っていた。国道へ降ると、前方は高速道路の大規模な工事現場。先日から通れるようになったばかりで、新田平見道へ階段とロープで誘導される。 短い区間ながら石段のつづく道が残り、周囲の樹林に安らぎを覚えた。ほどなく新田平見から東平見へ入る。旅の僧(弘法大師)に食事を施したという「おおな魚」伝説の大師堂や、石垣に守られた家々を眺めながら和深(わぶか)川の畔まで降った。少し時間があるので、上品(じょうぼん)禅寺や西地(にしじ)の集落を周回する。 旧道で熊谷(くまだに)の大日如来石柱(大辺路コースマップに記載)まで行ったが、ここも工事で騒々しく、祀られた石仏だけを確認してすぐに和深へ引き返す。海辺の縞模様の岩壁は「タービダイト」と呼ばれ、互層になった砂岩と泥岩は土石流の証だという。列車の時刻まで、波と雲を眺めて過ごした(2025.4.4)。 |