送り火で親しまれる大文字山の南西にあって、古くから人々に知られた山であった。山中に大日堂があることから山名になったといわれている。
『雍州府志』(貞亭三年=1686)など、江戸時代の地誌には必ず載るほどの名所だったが、明治以降はすっかり忘れられ、今も京都のガイドブックに出ることはまったくない。また、京都一周トレイル東山コースが南北に縦走しているものの、大日山を知って歩く人は少ないだろう。大日堂のあった場所や山頂は迂回しており、史蹟に関心を持って訪れる人もほとんどないと思われる。なぜ、このようなことが起きたのか気になるところだが、あまり詮索しないほうがよいかもしれない。
もともと、この地は京都の四方に大乗経をおさめて鎮護した岩倉のひとつで、そののち東岩蔵寺真性院が建立された。
上の絵図は『再撰花洛名勝圖會(東山之部 二)』(元治元年=1864)のもので、詳しく様子が描かれている。当時は参詣者が数多く訪れ、桜や紅葉・ツツジ・マッタケなどを楽しんでいたことが文章から読み取れる。さながら、シダレザクラの咲く円山公園の賑わいが一年中つづいているようなもので、「帰るを忘るるもいと多かり」と述べている。また、豊臣秀吉が山頂に楼を設けて京都を眺望したと伝え、「絶景の勝地なり」とも記している。さらに、毎年6月28日は「千日詣」で、不動堂(草川の源流にある不動滝)へ参ることが都人の習わしだったようだ。
そんな、かつての情景を想い描くことも、新しい「京都の歩き方」ではないだろうか。 |