探山訪谷[Tanzan Report]
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 No.5【越えられなかった金沙江(Jin Sha Jiang)】
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上流
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下流
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 上=レワ(リエワ)付近より金沙江の上流方向を見る
 下=金沙江の流れ。能海寛のスケッチ(下図)に近い地点から見た下流の眺め
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スケッチ人物
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 左=能海が巴塘へ戻るときに描いたスケッチ
 右=中国服姿の能海寛
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 中国最大の大河である長江(揚子江)の上流は、金沙江(Jin Sha Jiang)と呼ばれ、西蔵自治区と四川省の境界になっている。中国からチベットをめざすには、「天下の険」であるこの流れを越せるかどうかが、その成否を分けた。10年前でも、四川省側の左岸から右岸にある竹巴篭(Zhu Ba Long)のチェックポストを通過するのは緊張したものだ。
 明治から戦前にかけて、チベットをめざした日本人は10人にのぼる。そのなかで、ただひとり帰ってこられなかった能海 寛(のうみ‐ゆたか)は、金沙江を前に次のような歌を詠んだ。

  泥水に こがねの沙を 流しゆく
    幅は三町 岸は高山
  のぞめども 深山の奥の 金沙江
    つばさなければ わたりえもせず

 明治時代、鎖国状態のチベットへ行こうと決意した人のなかで河口慧海はとくに有名だ。だが、先鞭をつけたのは能海である。チベットと中国(清・中華民国)の力関係から、そのボーダーラインは時代によって東西方向にかなりの幅で移動した。彼は、打箭爐(ダルチェンド=現在の康定)から理塘(リタン)を経て巴塘(バタン)まで進んだものの、役人に妨げられ牛古渡(ニューグド=レワ付近)で引き返さざるをえなかった。そして、二度目は青海側から、三度目は雲南側から挑戦するが、1901(明治34)年4月18日付の、恩師=南條文雄宛の書簡を最後に行方を絶った。
 宗教家や哲学者など、その人物像は幅広く語られるが、探検家としても特筆できる素質を持っている。その残された記録や図版・スケッチから、当時の社会や地理がいきいきと伝わり、その業績はもっと評価されてよい。登山の報告も詳細に書き記されており、記録を重視する姿勢は大いに見習いたい。
 現在は、川蔵公路(成都―ラサ)の大橋が架かり、車で簡単に西蔵自治区へ入ることができる。旅行会社のツアーも、既に珍しいものではなくなった。
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標識
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 バーチュホー(巴楚河)と金沙江の合流点近くに設置された川蔵公路1995kmの標識
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『能海寛研究会』のウェブサイトへ 
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